2019年3月24日「新しい皮袋」

2019年3月24日主日礼拝



聖書

マタイによる福音書第9章14節〜17節

ローマ人への手紙第8章1節〜2節

ガラテヤ人への手紙第2章15節〜21節





崔牧師メッセージ


「私たちの信仰は、目に見えるものではなく、見えないものを求めています。


私たちは何を求めているのか。


信仰というものはどういうものなのでしょうか。


聖書に書いてある、イエス様が信仰によって教えてくださる愛とはどういうものなのでしょうか。


それを知るべきです。


今、ひとりひとりがイエス様とお目にかかる礼拝の時間、讃美をささげる時間、悔い改めて祈りをささげる時間を大事にしていると思います。


イエス様が今、私に何をおっしゃっているか。


私が本当に、天国に行きたい、永遠の命をいただきたいと求めているでしょうか。


『その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食しているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」』〈マタイ9:14〉



この質問にイエス様が答えられます。


『だれも、真新しい布ぎれで、古い着物きつぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちがするであろう』〈マタイ9:16〜17〉



この断食とイエス様の答えはどう関係があるでしょうか。


この厚い聖書は何を語っているでしょうか。


バプテスマのヨハネの教えも


パリサイの教えもあったはずです。


イエス様はそれらの教えを『古い皮袋』と言っているわけです。


真新しい布きれ、新しいぶどう酒はイエス様の教えです。


ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちは


『なんで教えに従わないか』


と思ったでしょう。


自分たちはモーセを通しての律法の教えに1500年間従ってきたのに、


この人達はイエスが来て、イエスの教えだけに従っている。


自分たちに反することをやっている。


だから、ずっとイエス様を攻撃したのです。


今、この『いのちの道キリスト教会』と教えが違う教会もあると思います。


ヨハネの弟子たち、パリサイ人から見たら理解ができないんですよ。


律法、教えを破っているようにみえるわけですね。


『うちの教会の教えだけが正しい。


他の教会の教えは価値がない』


と、軽んじたり、


『うちの教会の教えに従わなければ無礼者だ』


というのはいけない。


霊的な流れは上からきます。


もし私が『他の教えは聞く必要もないし、うちの教えだけが素晴らしい』


と言ったらどうなるか。


そうなればヨハネの弟子たちやパリサイ人と同じです。


キリストイエスの中で、さばき合うことはいけないと聖書に書いてあります。


信仰がないノンクリスチャンのことも愛してゆるして、イエス様の愛の中に導かないといけないのに、


イエス様の中にいる人同士さばき合うのでしょうか。


ヨハネの弟子たち、パリサイ人は高ぶっていたのかも知れません。


ですが、イエス様の教えはそういうものではありません。


新しい皮袋に生まれ変わらないと、新しいぶどう酒を入れてもらえないと、


思いを変えれば、救いが起きます。


どんなに偉い人でも、いくら大きな教会で語っている牧師も、みな罪びとです。


そして、イエス様を信じて救われて、認められて神の子になっただけです。


神の子になったことは素晴らしいですが、


元々は弱い人間です。


その口から出る言葉が立派だとしても、


自分の言葉ではなく、神の言葉です。


価値のない者にイエス様が御霊をくださって、みことばをくださって、イエス様を語っているんです。


真理を語るのは聖霊が語ってくれるでしょう。


イエス様の教えは『愛し合いなさい。ゆるし合いなさい。』ということです。


ゆるされた者同士認め合うところが教会です。


イエス様に支えられているから、支え合う。


それが教会です。



そのためにイエス様が仕えてくださいました。


それなのに、『私が一番。私の教会が一番』という。


人間の目線で順位を作っている。



イエス様の教えはそうではありません。



牧師や人間の教えに従うなら、その人の弟子です。



 私たちはイエスの弟子、イエスの僕にならないといけません。



『私もゆるされた者です。一緒に支えていきましょう』



とお互い言うのが、キリスト教会の姿です。


この数十人の群れの中でも、心から認め合い、ほめ合う、助け合う時に


教会があたたかくなるし、ノンクリスチャンの方もここにまことの神の愛がある、命があると知ることができます。



自分がどこから救われて、ゆるされているか。


そのことをちゃんとわかっていく時に、


イエスが世の光として来られたような姿でイエス様に従うことができるでしょう。



福音は父からつかわされたイエス様を通して伝わったイエス様ご自身であり、イエス様の教えであり、それが神の義です。



私たちは神の義であるイエスキリストを信じて義とされたのです。


何か行ったから義とされたのではなく、ただ信じただけなのです。


自分の功労はないんです。


恵みは代価を払わず、すべて神のあわれみによってイエスキリストを通して与えられたものです。


恵みによって生きている、



恵みによって救われている。



教会はそういうところです。



今、壇上でみなさんに語っている私も罪びとです。


それを赦してくださったのはイエス様です。



どれだけ大きな恵みを私たちにくださったでしょうか。


イエス様の福音、義によって生きる教会であることを願っています。


だって、教会の名前が『いのちの道』ですよ。


いのちの道はイエス様です。


私たちは導き手。



本当の救いをくださるのはイエス様じゃありませんか?


その方の栄光が現れ、豊かにはたらいてくださる教会に、


そしてイエス様がほめたたえられる教会になるように。


私たちの考え、感情、判断もひとつの律法です。


そこから私たちは解放された人、自由人です。


イエスキリストによって。



さばき合うことはやめて欲しい。



それが救われた人のしるしです。



たとえ人からののしられても言い返すことなく、


その人のために祈れとみことばは言っています。


人の足りないところ、人の弱さをになってあげられるような信仰を持って行く人には、



救いが起きます。



信仰によってイエスの品性品格が自分の中に入ってくると、



必ず変わっていきます!」




アーメン✨



メッセージ要約  M.K