2018年11月11日主日礼拝
聖書
ヨハネによる福音書
第3章16節〜18節
第1章1節〜3節
崔牧師メッセージ
「
皆さん。仕事、家庭、日本…だれがくださったでしょうか。
全て、イエス様がくださったものですね。
私は、先日ある青年に『仕事を喜んでいますか?』
と、問いかけました。
そして、『仕事を喜んですると、仕事もあなたを喜んでくれるよ。
喜んですると、仕事が仕事をうみだすよ。』
と、伝えました。
イエス様は人の罪を全て背負ってゴルゴタの丘に行かれ、十字架につけられましたが、
それだけが十字架ではありません。
信仰は、ただ教会に来て、聖書を読んで、祈って、それだけで終わりではありません。
神の愛というのは、神は愛なる方だと知らせるために、ひとり子なる御子をこの世につかわしてくださいました。
聖書には『御子を信じる者が救われる』と
あります。
父の愛をわかっているイエス様はみんなに救われて欲しい。
でも、イエス様とかかわりのない人は、その御名を信じないからさばかれている、と聖書に書かれています。
伝道が上手い、献金もたくさんしている、奉仕もしている…と言う方がいるかもしれません。
でも、まずイエスキリストの中にいる事が大事なのです。
聖書では、自分の中にイエスキリストがいないと、いのちがないと書かれています。
イエスキリストが自分の中にないと、信仰がないということ。
信仰がないという事は、さばかれている、救われていないという事なのです。
神は愛なのに。
誰にでも心理を聞く耳があるのでしょうか。
誰にでもイエスを信じる信仰があるでしょうか。
それがあることを願って、私達は伝えていますが、
いくら可愛い子供でも、大切な両親でも、イエスのいのちがなければ、
信仰がなければ、さばかれているのです。
奉仕や献金、伝道がてきなくても、まずはイエスキリストを記念するような礼拝ができる。
そのような信仰の方が神様の愛を知っているのではないでしょうか。
私達は今、主の中にいます。
だから、主の御前で
『イエス様は私の喜び、平安、幸せ、力、命です。』
と告白できます。
これは簡単なことではありません。
皆さん、信仰がなかった時を考えてみてください。
こういう告白はできませんでした。
神の愛はどこにあるでしょうか。
私の中にあります。
神は愛ですが、主の御前にいる人だけに救いがあるのです。
今、私達は主の中にいるから、この場所に来て主の日に集うことができました。
全てのことは言(ことば)によってなっています。
主の中にいなければ、『イエス様』と周りに言うこともできません。
私は先日、暗くなってしまい、ある人に対して文句を言うようになりました。
『イエス様はあなたを愛してますよ』と心から伝えることができない自分がいました。
いつの間にか悪魔にやられていました。
そして、祈りながら主に悔い改め、『あなたは私の喜びです』と告白しました。
そうすると、暗い雲のようなものがすっと無くなりました。
『私をいつもあなたの中においてくださるんですね。
あなたは私の喜び、私の愛です。
主が共にいてくださることを感謝します。』
告白ができて、いやな思いをなくしてくださいました。
皆さん仕事を喜んでいますか?
全てのものはイエス様によってつくられています。
嫌な人でも、嫌な仕事でも、上手くできるようにしてくださるイエス様の深い愛と喜び、力をくださる方によって、すべての事ができるのです。
だから、『私はできませんが、イエス様が私の愛、喜びですよ』と、
イエス様と深い関係を持っていると全てのことがイヤにならないのです。
問題は私の心です。
神の国は私達の中にあります。
私の中に主がおられ、はたらいてくださる時にそれが現れます。
人間的には色々な思いが浮かび、悪魔は試みますが
その時『イエスの御名によって、私から立ち去れ!退け!家から、教会から!』
と祈りましょう。
悪魔は真理に対敵します。
イエスの御名によって命じるのです。
『私の体にいる悪霊は一匹残らず出て行け!』と。
私たちの中にあるイエスの御名を、大胆に使って宣言してください。
イエス様は求めれば与えてくださいます。
主は共におられます。
自分の中で、主と深くかかわりながら、喜んで、愛して、歩んで行きましょう。」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N

