2018年8月12日「応えてくださらない神様」

2018年8月12日の主日礼拝






聖書



詩篇第139篇1~24節




詩篇第10篇1~4節




出エジプト記第5章22, 23節




創世記第3章12節




創世記第3章7~10節




創世記第3章21節




ペテロの第一の手紙第1章18~20節




ヨハネによる福音書第9章1~3節




ペテロの第一の手紙第3章21節








智慧宣教師メッセージ






「今日は、先週三泊四日間の韓国チャンビッ教会の修練会に参加して、その中で見て、聞いて、感じたこと、恵みいただいたこと、あかしを皆さんと分かち合いたいと思います。





私たちは、神様に対して誤解しているところはないでしょうか?





なかなか思うようにいかない、祈っていても答えをくださらない、そのような時に神様に対して、うらんだことはなかったでしょうか?






また、これくらいしかできないと自分のことを恥じて、申し訳なくて、神様のみまえに出ていくことがおそろしい、そのようなことはなかったでしょうか?





今回の修練会に行く前、私自身崖っぷちに立っていました。





また、クォンヌン(弟)自身が先ほどあかししましたが、祈っても答えがなく、神様に対してうらんで、奉仕しても喜びがない、祈りたくもない、どうしたらいいかと悩んでいた時に、修練会で共に祈ってくださる方々の助けもあって、恵みを受けて帰ってくることができました。





聖書を何ヵ所か共に読んでいきますが、私たち人間はアダムの時から、神様をうらむことがありました。





善悪を知る木の実を食べたことについて、アダムが、

『あなたが、わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』と、神様をうらみました。





またその前に、アダムとイブの目が開かれ、自分たちが裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻きました。





そして、神様が歩まれる音を聞くと、避けて身を隠しました。





ここの姿は、修練会に行く前の私自身でした。





これくらいしかできない私は、神様のみまえに出るのは申し訳ない、恥ずかしい、恐れて身を隠した、崖っぷちに立っていた状態でした。





そのあとの箇所を見ると、神様はアダムとイブにどのようにされたでしょうか?





神様は皮の着物を造って、アダムとイブに着せられました。





この『皮』とは、動物から取られた皮です。






動物の皮を取る時には何が流れるでしょうか?





『血』です。





動物の血は 『たとえ』ですが、ここのところは、神の御子が体をもってこられ、全人類の罪を血を流すことによって、あがなってくださることをあらわしています。





イエス様は私たちひとりびとりの思い、考え、悩み、願い、申し上げる前からすべてご存じです。





ご存知なのに、どうして答えてくださらないのかと、目に見える現状が変わらないと、人間は弱いからうらんでしまうこともあります。





『生まれつきの盲人がなぜ、生まれつきの盲人なのか、本人の罪か、または両親の罪なのか』と問う場面がありますが、そうではなく、ただ、『神様のみわざがあらわれるためである』と、イエス様ご自身が言われました。





私たちの、今はまだなっていないこと、大変だと思うことも、そのことをとおして、イエス様がみわざを起こしてくださり、私たちに信仰のあかしを与えてくださるためです。





うらんだり、恥ずかしく思ったり、皆さんそれぞれが、私には分からない、受けた傷や悩みや葛藤がたくさんあると思います。





イエス様が私たちに求めておられることは、私たちが何か上手にすることでも、あれをしたこれをしたということでもありません。





ただ私たち自身を、私たちがイエス様に立ち返ることを、イエス様は望んでおられます。





崖っぷちにいた私自身が、その答えをいただきました。





修練会で、バプテスマを受けられた方が何人もおられましたが、明らかな良心を神に願い求めるとは、神様に立ち返ることを意味します。





私たちは神の作品であって、良い行いをするように、イエス様にあって造られました。





どんな自分であっても、すべてご存知で、ありのままを受け入れてくださるイエス様に立ち返り、どんな時でもイエス様の中で喜んで歩んでいけたらいいなと願っています✨」





アーメン✨





メッセージ要約 Satoko.M

(今週は筆者が他の聖会出席のため、Satoko姉妹が代行しております。)