2018年6月10日主日礼拝
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう』〈ヨハネ15:7〉
わたし達の教会では、月に一回職分者が交代でメッセージを語ります。
今回はいつも奏楽の奉仕をしてくださっている岩吉執事が語ってくれました。
聖書
コロサイ人への手紙第3章12節〜17節
ヨハネによる福音書第15章7節
岩吉執事メッセージ
「
私の信仰は最初讃美を通して始まりました。
そして、聖書を読む中、わたしには人を赦す心がないということがわかりました。
それまでの私は、自分が一番、自分が正しいと思う人でした。
この〈コロサイ3:12〜17〉は、主が私を赦してくださっているにもかかわらず、私は人を赦すことができていなかったとわからせてくれたみことばです。
この聖句は、自分の信仰の原点です。
もうすぐ信仰を持って5年になるのですが、自分の信仰を振り返ってみました。
讃美は好き、聖書も本を読むように読めた。
でも、祈りに対してだけが、なかなか身につかなかったんです。
『祈る』という経験がなかったので、一番なじめませんでした。
日本人は形から入ることが多いじゃないですか。
習い事もまず道具を揃える。
神社やお寺の建物の前に来たら、そこに神様や仏様がいるような気がするし。
しかし、この教会に来たら建物がなく、お借りしている会館のただの音楽室の中で教会の人達が大声で祈っていたので、驚きました。
聖書や讃美はわかっても、祈りが最後までなじめませんでした。
皆さんの祈りの姿を見て、『早く終わって欲しい』と、思っていました(笑)
バプテスマを受けても、正直よくわからない部分もありました。
でも、今している聖書の学びを通して、霊感の中で祈りを克服できたんです。
牧師先生や宣教師から『祈りなさい』と言われていましたが、
祈りは神様との会話であり、神様との約束であり、
確信と感動があると悟るまで5年近くかかりました。
今は祈りを通して神様と出会うことが大きな恵みです。
神様と会話ができ、答えを得ようとしている自分がいる。
これが5年の信仰生活の中で一番の恵みです。
聖霊様も「あり得ないことだ」と思っていた私ですが、
牧師先生が聖霊様を受けるよう導いてくださり、
それならば、と真剣に祈り求めて聖霊様と出会いました。
この感動を知っているから、先生達がおっしゃってくださっていたんだとわかりました。
神様は目には見えない中で、答えを祈り求め得ようとすることは、つらく難しいです。
でも、今は祈りの中で神様からくる思いが必ずきます。
祈りの答えを確信できる、感動できることが素晴らしいです。
神様からの賜物の中で、救いを受け神の子に立ち返る、そして祈りができる。これが大きな恵みです。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう』〈ヨハネ15:7〉
『私の名によって求めなさい』
この事が聖霊様によって確信できたのです。
まだ聖霊様を受けていない方は、
扉は頂いています。
でも開くか開かないかは祈りによるのです。
扉を自分も頂いているという確信がないと、不安になりますが、祈りが大事なんです。
私は家族と離れて暮らしていますので、子供達の事がいつも心配です。
連絡をなかなか返してくれない子もいますが、
神様に祈っていると、いつも耳元で
『祈りなさい。あなたの祈りによってささえるから、あなたが祈りなさい』
という声が聞こえます。
でも、見えないから不安になることもありますが、
その不安を神様に申し上げると、必ず答えをくださいます。
祈りに対して答えを待つ。
祈りの約束が必ずあるから、忍耐して答えを待つ。
そのような信仰を持つべきだと、学びを通してメッセージに感動を受けました。
祈りには自分の意思による、祈りもありますが、
霊の祈りは異言の祈りです。
異言の祈りは、権能を信じる人に現れる祈りであり、
自分の霊が神に秘密を語り、全ての悪から守ってくださる祈りです。
私は異言が何を語っているのかわからなかったんですが、異言をいただいているにもかかわらず、その素晴らしさに気づいていませんでした。
それがわかってから、価値観がさらにわかり、異言の祈りができることに感謝しました。
今日は皆さんと異言の賜物の素晴らしさを分かち合いたかったんです。
祈りに神様は必ず答えをくださり、祈りを聞いてくださる。
その答えは、その人にとって良いかどうかはわかりませんが、祈りを必ず聞いてくださると言う確信を持ちましょう。
私は祈りに対して弱かったんですが、吹っ切れる事ができたので、今日は分かち合いました。」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N


