2018年5月20日主日礼拝
聖書
ヨハネによる福音書第3章16節〜21節
マタイによる福音書第25章31節〜46節
崔牧師メッセージ
「
イエス様が『誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』
とおっしゃったのを聞いたニコデモは、聖書を教える教師でありながら理解できず、
『どうしてそんなことがあり得ましょうか』
と、答えました。
みことばは教えているのですが、聖霊によって生まれ変わっていないから、理解できないのです。
人の子つまりイエス様の肉を食べる者は死ぬことがないと言われ、それまでイエス様のみわざにより信じていたユダヤ人達がつまずいてたくさん離れていきました。
肉を食べ、血を飲みなさいという意味がわからないのです。
イエス様はみことばが体となって来られましたが、
人々は自分と同じ体だと思うから理解ができないのです。
みことばが肉となって来られ、みことばをちぎって与える。
体を持って来られないと、十字架にかかって血と水を流すこともできません。
『水と霊によってバプテスマを施しなさい』とイエス様はおっしゃいましたが、
これはイエス様の命令です。
聖霊によって生まれ変わっているが、みことばに従うか。
みことばはわかっている。
でも、ひとつひとつに従っているでしょうか。
『私を愛する者は、私の戒めを守る者』
とイエス様はおっしゃいました。
バプテスマも従順です。
イエス様がみことばをくださっても、従わなければ何も起きません。
『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠のいのちを得るためである。』
〈ヨハネ3:16〉
イエスキリストが来られたのは、この世を裁くためではなく、
この世の君、暗闇の主権者、死の権勢者、偽りの父である悪魔を滅ぼすために来ました。
今、アダムの子孫としてこの世の君に属されているすべての人がひとりも滅びないように来られたのです。
信じない者は裁かれています。
父が何の罪もない御子を送ってくださいました。
アダムが悪魔に騙されて、人は神から離れてしまったのです。
だから、すべての人が救われて欲しいのです。
『彼を信じる者は、さばかれない。信じない者はすでにさばかれている』
〈ヨハネ3:18〉
だから、イエスの御名が大切なのです。
イエスの御名がずっと中で働いてくださる。
父は見たことはありませんが、御子を通して父の御心、喜び、平安をあらわしてくださいます。
イエスの御名が救いです。
これを宣言してあげるのが、福音伝道です。
私たちが愛する家族、友達、親戚はイエスの御名をちゃんと持っているでしょうか。
イエスの御名を持っているものは命があるのです。
聖霊もイエスの御名を持って来られています。
良い行いをするから救われるのではありません。
体があるから救われるのではありません。
病気になって、体がぼろぼろになっても、残るのは私の霊魂です。
福音伝道のために病気の癒しはありますが、それは一時的です。
歳を取るとシワも出てくるし、体は衰えます。
本当の救いは、肉体ではなく、私たちの中にあるのです。
体が元気でも、霊魂が満たされたら若くても主に呼ばれることもあります。
だから、教会の中で体で判断し、さばき合うことがどれだけ愚かなことでしょうか。
肉の目で判断するなら、私も気に入らない人もいます。
しかし、ひとりの魂を救うのが大事なのです。
〈マタイによる福音書25:31〜46〉
羊でしょうか、ヤギでしょうか。
イエス様が『隣人を自分のように愛しなさい』
と、おっしゃったのは、隣人もイエス様が送った人だからです。
イエス様がしたようにしていますか。
私たちの目が、イエス様のような目になっていますか?
皆さんはひとりひとり選ばれて、永遠の命を持っています。
喜びがあります。
この喜びを自分だけでとどめて良いのでしょうか。
自分の愛は限界があります。
聖霊様の愛でひとりひとりを愛しているでしょうか。
愛を持って伝えていますか?
そのような器になる時に、イエス様が働いて人を送ってくださるのです。
人を表面的に判断するなら、何も起こらない。
もし、そうだとしたら私たちは妨害を受けているのです。
今、私たちは救われて感謝していますが、これで満足するのではなく、イエス様が残してくれた歩み、苦難を共に受けるべきです。
教会は苦難を受けるべきところです。
思いを変えて、伝えていきましょう。」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N
