2017年11月12日「みことばで癒される」



2017年11月12日主日礼拝



聖書
マタイによる福音書第18章1~34節




マタイによる福音書第8章1~34節
『イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。』




崔牧師メッセージ




「同じ御言を聞いても、同じみわざを見ても、人によってまったく思い、考え方が違うのは不思議です。



人がイエス様の御言の権威を認める時に、みわざが起こります。



百卒長には、わざわざイエス様が来られなくても、御言によって僕はいやされるんだ、という信仰がありました。



御言を迎え入れようとする人に、イエス様が働かれます。



正反対なのが、最後の場面です。



墓場にいた、二人の気が狂った人を癒されたみわざを見たのに、町の人たちはイエス様に『町から出ていってください』と言いました。



この墓場の二人のことを知らなかった人は、そのあたりではいなかったでしょう。



もしこの癒された二人の人が、自分の家族や友人だったらどうでしょうか?



イエス様が癒してくださったというのに、『出ていってください』と言うでしょうか?



私だったら、家族、親戚、友人の中で病んでいる人がいたら、みんな連れてきて、『どうかイエス様、この人たちもみんな癒してください!!』と、お願いしたでしょう。



イエス様のみわざを見たのであれば、豚が死んでしまって、ビジネスがパーになったことなんか問題ではありません。



このガダラ人の人たちに信仰があったのであれば、逆にイエス様を引き留めたでしょう。



ビジネスがだめになったとしても、またよみがえらせてくださる方もイエス様です。



イエス様が何でもおできになる方だと、悟ることができませんでした。



『御言によれば不可能なことはない』と悟った、先の百卒長とは、180度違います。



私たちにも、目先の肉のことで、イエス様のことを拒むことがないでしょうか?



百卒長がいやされたのも、墓場の二人がいやされたのも、御言によってです。



私たちはオープンして、いつでもイエス様をウェルカムしなければいけません。



ガダラ人の人たちのように、目先のもののために、イエス様を拒む者になってはいけません。



御言を慕い求めで、働いてくださるわが霊魂となりますように、お祈りいたします✨」




アーメン✨


メッセージ要約      Satoko.M