2017年9月24日「放蕩息子でも」



2017年9月24日の主日礼拝


聖書
ルカによる福音書15章11節〜32節



今回は、I 宣教師がメッセージを語ってくださいました。 




ルカによる福音書第15章11~32節
『また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。』




 I 宣教師メッセージ




「講壇に立つには取るに足らない者ですが、今日はこうして語らせていただけることに、イエス様に感謝します。



御言は何回でも読んだ箇所ですが、今日は、お父さん、お兄さん、弟、それぞれの立場から見て、私が感じたことについて語りたいと思います。



私は、お父さんの思いがよく分かる気がします。



これはたとえですが、実際に親であれば、放蕩息子のような子どもがいたとしたら、イライラしながらも、悩み、葛藤しながらも、やはりいとおしくて、気にかけずにはいられないでしょう。



姿が見えないなら、『今頃どうしているかな?』と。



どんなに出来が悪くても自分の子は大切なように、父なる神は、私たちをどんな姿でもありのままを受け入れてくださいました。



私たちも、何も持たなかった時に、ただただイエス様のあわれみによって、導かれました。



イエス様のところに来たばかりの時は、だれでも放蕩息子のようであったはずです。



もちろん、お兄さんのように、お父さんのそばでずっとまじめに堅実に働いた姿もイエス様から喜ばれることですが、肝心なお兄さんの心の中はどうだったでしょうか?



お兄さんがずっと父から離れることなく働けたのも、お兄さんが偉いからではなく、イエス様の恵みによって、できていたことです。



『私は今までお父さんの言いつけに背いたことはないのに』と、弟が帰ってきたことに素直に喜ぶのではなく、まじめに働いてきた自分と比べてどうなんだと、さばいてしまいました。



お兄さんは、自分が変わらずにお父さんのそばにいられたのも、恵みによるもの、あわれみによるものだと気付かずに、自分の義を立てようとしました。



お兄さんはまじめに働くことはしましたが、一番大事なお父さんの、父なる神の御心が分かりませんでした。



私たちも、信じなかった時は、同じだったはずです。



私も以前は、『私には宗教は要りません。今まで自分の力で人生を切り開いてきたし、これからも自分の信念で生きていきます。』と、言っていました。



そんな私が、イエス様と出会って180度変えられました。



ここに立っていることも、以前からしたら考えられないことです。



『私が罪人です。私を受け入れて、救ってください』と求めてくる者を、イエス様は分け隔てられません。



人間は、自分の基準で人を分け隔ててしまいがちですが、イエス様は違います。



『それならば、どうして全人類みんなを救ってくださらないのか』と、思われる方もいるかもしれません。



私なりの考えですが、イエス様はご自分を受け入れる人、救いを求める人を待っておられるのだと思います。



イエス様は、つねに人間の心の中心を見ておられます。



何もかもかなぐり捨てて、父なる神のみもとに出ていった、はじめの愛にいつも帰らなければいけません。



私自身も、自分の罪が分かりながらも、どこかプライドを捨てきれない時があったりします。



そのような時は、すべて重荷をおろせるように、父なる神に悔い改めます。



放蕩息子のように、『自分は何もない者ですが、ただただイエス様の恵みによって、あわれみによらなければ生きていけません』といつも告白し、そのような信仰を持って歩んでいきたいですし、また歩んでいけるようにお祈りいたします✨」




アーメン✨


メッセージ要約   Satoko.M