2017年9月3日「罪、義、裁き」



2017年9月3日主日礼拝


聖書
ヨハネによる福音書第16章1~24節、ピリピ人への手紙第2章3節



ヨハネによる福音書第16章1~24節
『わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』



ピリピ人への手紙第2章3節
『何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。』




崔牧師メッセージ




「私は先週ある人と話していた中で、聞いた御言によって、ずいぶんと悔い改めに導かれました。



人を自分よりすぐれた者とすることについて、自分自身がこの御言にとどまれていかなかったことに、あまりにも申し訳なくなりました。



私としては今まで、相手に良くなってほしい、救われてほしいという思いから、たくさんの方々とかかわってきましたが、相手に対して心から仕える思いで、自分よりすぐれた者としていたのかと言ったら、そうではありませんでした。



私よりすぐれている部分に対してはそのように見れても、逆に、私よりすぐれていない部分に対しては、どこか、『私がこの人を正さなければいけない』という思いから、声が大きくなったり、強く言ったことも何回ありました。



聖書には、『良い部分だけを見て、その人を自分よりすぐれた者としなさい』とは、書かれていません。



いつのまにか自分を高く評価して、自分のはかりで相手を見てしまうことがありました。



イエス様が体をもってこの地におられた時は、『父なる神だけが義なる方だ』と、言われました。



イエス様が天にのぼられ、聖霊が私たちに臨まれてからは、イエス様が義なる方です。



私たちには正しいことはひとつもなく、義はありません。



かけらでも自分の義があったら、それが自分の信仰を妨げる隙になります。



すべてのことをイエス様にうかがいながら、御言に従っていきましょう。



イエス様ご自身は神の御子でありながら、父なる神のみまえで、つねにへりくだった御心をもって歩まれました。



へりくだらなければ、人を自分よりすぐれた者とすることはできません。



互いにそのような思いをもっていける時に、愛することも、伝道することもしやすくなります。



私たちは足りなくても、柔和で心のへりくだったイエス様に頼りながら、一歩一歩近付いていけるように、すべてのことをついて、イエス様の導きをいただきながら、歩める一週間となりますようにお祈りいたします✨」




アーメン✨


メッセージ要約 Satoko.M