2017年6月11日「かっこ悪くても」


2017年6月11日主日礼拝


聖書
2017年6月11日の主日礼拝は、マタイによる福音書第23章1~12節、マルコによる福音書第10章35~45節、ルカによる福音書第18章9~14節



マタイによる福音書第23章8~12節
『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。』


マルコによる福音書第10章42~45節
『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。』


ルカによる福音書第18章9~14節
『自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。』



崔牧師メッセージ



「私たちのまことの父とはだれでしょうか?


また、まことの教師とは、だれでしょうか?


以前、水曜礼拝の時に、教会の中でのお互いの呼び方について、話したことがありました。


私は、『牧師先生』という呼び方に違和感がありました。


なぜならば聖書には、『先生と呼ばれるな』と書かれていますし、同じ罪人だからです。


私たちは皆、父なる神の御前では兄弟です。


私たちのまことの教師であるイエス様こそが、私たちが習うべき唯一のお方です。


もちろん、イエス様は神の御子であり、罪のないお方です。


イエス様は、『私の信じる父なる神様』と申し上げたり、悔い改めをされることはありません。


私たち罪人は、悔い改めをしないと生きられません。


私たち人間は罪人ですから、御言が体となられたイエス様とは、根本から違います。


『天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』とは、『神様のように完全になりなさい』という意味ではなく、『信仰者として完全でありなさい』という意味です。


『お父様』と言いながら、肉親の父は、霊魂が体からあっという間に離れていきます。


肉親の父が、まことの天の父を知らなくて死んだら、天国に行くことができません。


何が『本当の愛』でしょうか?


世の中には、よく親の世話をして、困らないように助ける親孝行な人、クリスチャンでもなかなかできないくらい親切だったり、人のために良い行いをする人もたくさんいます。


だけど、そのことによっては人の霊魂を、地獄から天国に導くことはできません。


まことの父であり、教師であるイエスの御名を知らずに死んだら、どんなに世的に善行を積んだ人でも、天国には行けません。


『だれが私の父なのか、母なのか、兄弟なのか』とイエス様が言われた意味は、とても深いです。


永遠なるたましいを天国に導くことができなければ、本当の愛とは言えないと、私は思います。


まことの教師であるイエス様は、どのような方でしょうか?


罪だらけで、主のみまえでちりのような私たちを、イエス様は受け入れてくたさり、救ってくださいました。


十字架の血のあがないがなければ、私たちは今日ここにはいませんでした。


キリスト教の歴史を見たら、苦難と迫害です。


クリスチャンの人生とは、イエス様の残りの公生涯です。


私自身、父と母を導くために、たくさん霊的に戦いました。


力強く、信仰をあらわしていく時には、迫害と苦難とを伴います。


そのことがある時に、救いが起こります。


イエス様が父の御心に従って、苦難を受けられなければ、私たちの救いはありませんでした。


罪のない、まったきお方がこのようにされたのだから、その方によって救われた私たちは、当然低くなるべきではないでしょうか?


自分を捨てることができないから、なかなか低くなれないし、御言に従うことが難しくなります。


私たちは何か、この世の中で、かっこいいことを求めるのではありません。


ある意味、人間的にはかっこ悪いです。


イエス様も、罪人のようにかっこ悪くなられたのですから。


教会の中で、家庭の中で、職場の中で、友人、知人、隣人に対して、私たちが恵みを受けた者として、どこまでも低くなって、仕えていく時に、イエス様が救いを起こしてくださいます。


イエス様が先生ならば、私たちは弟子です。


聖霊に満たされて、導かれて、どんな人でも受け入れて導けるような、そのようなイエス様のまことの弟子として歩める私たちとなりますように、イエスの御名によってお祈りいたします✨」



アーメン✨


メッセージ要約 Satoko.M