2017年4月30日「何ごとも思い煩うな」


2017年4月30日主日礼拝



聖書
ピリピ人への手紙第1章29節、ピリピ人への手紙第4章4節〜9節、コロサイ人への手紙第1章24節



ピリピ人への手紙第1章29節
『あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。』


ピリピ人への手紙第4章6節
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』


コロサイ人への手紙第1章24節
『今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。』



崔牧師メッセージ



「私たちは自分自身のことをも、果たしてどれくらい知っているでしょうか?


皆さん、自分の髪の毛が何本あるかご存知ですか?


何か体の中に異変がないのか、自分で全部分かりますか?


イエス様が、『あなたがたの頭の毛までもみな数えられている』と、言われたとおり、イエス様はすべてご存知です。


人どころか自分のことをも、私たちは知らないことがあまりにも多い者です。


それだのに、私たちは何かあったらすぐに思い煩います。


イエス様はすべてご存知ですが、『わたしはあなたがたをさばかない』と、おっしゃいました。


私たちは知らないのに、人をさばく、判断することがあまりにもたくさんあります。


見た目で、表面的に人を見て、妨害を受けることがどれだけあるでしょうか?


イエス様が救ってくださったのは、私たちの『霊』です。


それだのに私たちは人の、また自分自身の人格や体を見て、落ち込んだり、怒ったり、思い煩います。


イエス様は、『時々なら思い煩ってもいいよ』とは、おっしゃっていません。


『思い煩ってはならない』と、書かれています。


思い煩うというのは、イエス様にゆだねないで、自分が何とかしようと肩に力を入れることだから、そうしたらイエス様が働くところがありません。


『重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい』と、イエス様が言われました。


人を見たらいけないというのは、見た目や行いで人を判断してしまうと、その人が嫌になり、近付けなくなるからです。


そうしたら話したくもないし、伝道なんかできません。


私たち人間の人格や体を見たら、足りないところはいくらでもあります。


この牧師も、足りないところがあまりにも多いです。


私たちが人を愛するというのは、表面的ではなく、その人の霊の中にあるイエスの御名を愛するのです。


信じていない人だったら、その人の霊の中に早くイエスの御名が臨まれるように、祈りながらかかわっていくことです。


ふりかえったら、私たちが救われたのは、何か自分がすぐれているからではなく、ただただイエス様が、人をとおして私たちにかかわってくださったからです。


そのまことの喜びが感謝がある時に、どんな苦難をもおそれることなく、たましいの救いのために働くことができます。


私たちの信仰は、ただただ信じて終わるのではありません。


かろうじて救われたとしても、冠もありません。


パウロ先生は、たましいの救いのためならば、喜んで苦難を受けると言われました。


いつも聖霊に満たされて働き、イエス様から深い確信をいただいていたパウロ先生だから、このように書けたのでしょう。


聖書の御言は、ピリピ人やコロサイ人だけにくださったのではなく、イエスの御名を信じ、呼び求めるすべての人々にくださいました。


私たちはこれからもっと、自分の霊の中にあるイエスの御名を愛し、喜びと感謝に満ちあふれますように、そして、隣人の霊にも同じイエスの御名が一日も早く与えられるように求めて、歩んでいきましょう!!」



アーメン✨


メッセージ要約  Satoko.M