2016年12月4日「弱いところ」

2016年12月4日の主日礼拝は牧師メッセージの前に、いのちの道キリスト教会(当時の教会の名前は違います)が開拓された最初からいらっしゃるI 執事が信仰のあかしをされました。 


あかしの時に読まれた聖書の御言は、コリント人への第二の手紙第12章9,10節。



イエス様の恵みの中にあったから、長い年月が経っても、崔先生をとおしてふたたびイエス様のもとに立ち帰ることができて、今は聖霊様の導きの中にあることがとても感謝です、という内容のあかしでした✨


聖書は、コリント人への第二の手紙第12章9,10節



最初、牧師先生は別の箇所のメッセージを準備されていましたが、執事のあかしを聞かれて、この箇所のメッセージを語られました。


コリント人への第二の手紙第12章9,10節
『ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである』



イエス様の選びの器であるパウロ先生が、
『イエス様の恵みによらなければ、わたしは生きることができない』と、パウロ先生自身の信仰を告白する場面です。



崔牧師メッセージ




「私たちは、何がそんなに立派なのでしょうか?

何ができるのでしょうか?

パウロ先生はイエス様の証人として立派な働きをされましたが、人間としても落ち度のない、完璧に近い方でした。

律法学者の中の律法学者、パリサイ人の中のパリサイ人、律法のためなら人殺しでもするくらい、完璧に律法も守っていたような人でした。

そんなパウロ先生をイエス様は、
『わたしの選びの器である』とおっしゃられて、証人として用いられました。

パウロ先生は、イエス様から器として選ばれてからは、以前は律法を完璧に守ったように、今度はだれよりも命をかけて御国の福音を宣べ伝えました。

その中で何度もむちに打たれて、何度も獄に入れられました。

それでもパウロ先生は聖霊に満たされて満たされて、むち打たれて死んだと思われるくらいにまでなっても、また立ち上がって福音を宣べ伝えて、獄に入れられても喜んで賛美しました。

そのくらい立派な働きをされたパウロ先生でしたから、『わたしはこんなに立派に働きをしているのに』と高慢にならないように、パウロ先生の肉体にひとつのとげが与えられました。

このとげが、何をあらわしているのかはっきりは分かりませんが、おそらく何かの病気でしょう。

このことが取りのけられるようにと、パウロ先生が三度イエス様に祈ったら、
『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』と言われました。

『弱いところ』という意味を皆さん、勘違いしてはいけません。

『わたしは信仰が弱いからあれもできません。これもできません。足りてません』と言うだけで、祈りもしない、従順しない、奉仕もしない、伝道もしないで、やるべきことから逃げてばかりの人が、自分をかばうための言葉ではありません。

そうなったら、自分自身を甘えかしてしまいます。

はっきり言いましょう。

ある者にはもっと与えられるが、ない者からはあるものまでも取り上げられます。

また、ぶどうの木は、よく実る枝をもっと成長させるために、他の実らない枝を切って、実る枝にたくさん栄養がいくようにします。

切られない枝になるためにはどうするべきでしょうか?

イエス様にしっかりとつながって、イエス様の力が自分自身の弱いところに完全にあらわれるようにすべきです。

ここで言う『弱い』とは、信仰者として、イエス様のみまえで『謙遜になること』です。

謙遜でなければ恵みを受けられないし、恵みが恵みであることが分かりません。

だから、高慢になってしまいます。

わたしたちは、イエス様の力が豊かに自分自身の中に宿るように、謙遜にならないといけません。

本当に恵みが分かる人は、喜んで自分を捨てて、謙遜になることができます。

謙遜できないのは、自分を捨てていないから、高慢だからです。

皆さん、パウロ先生のような立派な方でも、喜んで自分を捨てて、謙遜しました。

皆さんがパウロ先生よりも、信仰者として、また人間としてすぐれているならば、あるいは高慢になってもいいかもしれませんが、そんな方はいないでしょう。

私自身もパウロ先生と比べたら、あらゆる面で足りない者です。

高慢になることはできないはずです。

信仰者として、イエス様の恵みがなければ私たちは、生きられない者です。

自分で生きていると思ったら錯覚です。

今われわれがここにいることも、自分勝手に来たのではありません。

恵みが分かる人が、謙遜にイエス様に従っていくことができます。

私はこの教会に、天にあるもの地にあるもの地下にあるものが豊かにイエス様から与えられるように、祈っています。

なぜならば、御国の働きを豊かにしたいからです。

そのために、イエス様から受けた恵みの中にしっかりとどまり、謙遜な者になって、自分に与えられた十字架を負うことができる私たちとなりますように。」


アーメン✨


メッセージ要約 Satoko.M