2016年11月27日「自分の十字架」



2016年11月27日の主日礼拝


11月27日の主日礼拝のメッセージは、先週、先々週に引き続き、マルコによる福音書第8章34節の箇所でした。


マルコによる福音書第8章34節
『それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」』


イエス様が、弟子たちと群衆をみもと近くに呼び寄せられながら、語られた御言です。


崔牧師メッセージ


「先週は『思う』ことについて、またその前は『自分を捨てる』ことについて語りましたが、今週のメッセージは『自分の十字架を負う』ことについてです。

イエス様は、『自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』と言われました。

『自分の』十字架です。

『イエス様の』十字架ではありません。

私たちが負うべき十字架は、イエス様が負われた十字架とは違います。

私たちもイエス様のように、むちにうたれて、いばらとやりにさされて、最後に十字架につけられて水と血を全部流しなさいという意味ではありません。

イエス様は、罪のない方です。

罪がないから、全人類の罪をかわりに背負って、私たちを罪から救うことができました。

われわれ人間は罪人ですから、他の罪人の罪を背負うことはできません。

罪人にはまず、その資格もありません。

私たちが負うべき十字架とは、イエス様から罪をゆるされた恵みが分かった神の子として、イエス様のみこころに従っていくことです。

イエス様が私たちの罪をあがなってくださったことを知って、私たちは父なる神のみこころを知るようになりました。

私たちも親になって子供を育てることによって、父なる神のみこころが少しは分かるようになったかもしれません。

親が子供を育てることは犠牲ではなく、愛するからです。

何とかして良くなってほしいから、時には厳しく戒めることもあるでしょう。

同じように、
『何とかしてこの人が救われてほしい。そのためなら私はどんなに損をしても、喜んで十字架を負います!』と言える人が、本当に恵みが分かる人です。

昨日、私はある人から、『先生、私たちのところに来てください』と言われていたので、会いに行ってきました。

私としては正直、
『行きたくない。本当だったら向こうが来るべきじゃないか』という思いがあって、行きたくはありませんでした。

このように、行きたくなくても会いたくなくても、イエス様が
『行って会いなさい』とおっしゃれば会いに行くことも、十字架を負うことです。

以前も、行きたくないのにイエス様が、
『行きなさい』というみ声をくださったことがあって、実際に行ってみたら、御言に従ったという感動の涙があふれ出てきました。

私たちひとりびとりには、それぞれその人に与えられた十字架があります。

教会の中の肢体としての働きはもちろんですが、家庭の中で、職場で、地域で、また市民、国民、人類としての十字架があります。

たとえば、ある姉妹、ある兄弟が負うている十字架は、その人にしか分かりません。

こうだろうなと想像はしてみても、その人のようには分かりません。

私たちは、果たしてどれだけ自分の十字架を負うているのか、ある時はおろしたり、悔い改めてまた背負ったりと、さまざまあるでしょう。

でも、このことは強制ではありません。

イエス様は、
『わたしについてきたいと "思う" なら』と、言われました。

イエス様についていきたくないなら、十字架を負う必要はありません。

私自身は、足りないけどイエス様についていきたいから、できる限り自分の十字架を負うて、イエス様に従っていきたいと願っている者です。

この場所に、もしかしたらイエス様から受けた恵みが、まだはっきりと分かっていない方もいるかもしれません。

十字架というと重く感じるかもしれませんが、イエス様からの恵みが分かれば、難しいものではありません。

イエス様は、
『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』とおっしゃられました。

イエス様の十字架は、全人類の罪を背負うための、死に至る十字架でした。

もちろん、そのあと3日目によみがえられて、今は天の御座におられます。

私たちはその方がおられるところを見上げて、死に至る十字架ではなく、命に至る十字架を負うて、霊魂がからだから離れる時まで喜んで歩むべきです。

皆さん、いっときの苦しみはのちの世の栄光のため、なかなか喜べない時もありますが、喜んで自分に与えられた十字架を負えるような信仰者となりますように」

アーメン


要約 Satoko.M