2016年11月6日の主日礼拝
今週は韓国からクォン伝道師とイム執事が来られて、若松にある『夕日の見える丘』という、とても眺めの良いレストランで礼拝を捧げました。
聖書の箇所はヨハネによる福音書第14章 1~17節
クォン伝道師がメッセージを語られました。
ヨハネによる福音書第14章6節
『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』
イエス様が、弟子であるトマスにおっしゃられた御言です。
クォン伝道師メッセージ
「今、イエス様が自分自身の中におられるのでしょうか? それとも、目には見えるけれども、イエス様が自分自身の中にはおられなくて、隣にいるのでしょうか?
旧約時代の『神の民』の中には決して、イエス様が入って来られることはありませんでした。
神がモーセをとおして、民をエジプトからイスラエルに導き出されました。
そこで、神様からモーセをとおして民に『律法』が与えられました。
神様から命じられたとおりにモーセがつくった、限られた人だけが入れる『幕屋』があります。
イエス様が、
『わたしは羊の門である』とおっしゃられました。
世には、あらゆる宗教があり、その人たちもそれぞれ自分の神を『神様、神様』と呼んでいます。
しかし、イエス様によらなければ、神様を知ったことにはならず、父なる神のみもとに行くことはできません。
イエス様によらないで幕屋に入ろうとする者は、盗人であり、殺人者です。
幕屋は、新約時代の私たちが仕えている『教会』の比喩です。
どのように神様に仕えるべきなのかを、旧約の民に教えるためにつくられました。
この『聖所』と『私たちの宮』と『教会』は同じものです。同じになるべきです。
幕屋の中に入っていくと、燔祭の祭壇があり、聖所に入る前には必ずそこでやぎや子牛の血を流しました。
その前に必ず、神殿で働く女性たちの青銅の鏡でつくられた洗盤で手を洗いました。
血を流して、罪をなくして、きよくなってから聖所に入ることができました。
きよくならないと、神にお目にかかることができません。
イエス様が弟子たちの足を洗おうとされたのは、そうしないとイエス様とかかわりのない者になるからです。
当時は、足を洗うことは、奴隷が主人に対してすることでしたから、ぺテロはイエス様に、
『わたしの足を決して洗わないでください』と、申し上げました。
『わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんのかかわりもなくなる』と言われたぺテロは、
『それなら手も頭も』
と、積極的に求めました(笑)
イエス様ご自身が永遠のあがないをまっとうしてくださった時に、聖所と至聖所を隔てていた第二の幕が真っ二つに裂けました。
人類が犯した罪によって、神と人とを隔てていた幕が取り除かれました。
旧約時代の信者は、『神の民』でした。『民』は、絶対に神の御国の相続者にはなれません。
神の民は、『イエス』の御名を呼ぶことができませんでした。
神の民には、エホバの名前が与えられました。この名前は天使によって与えられましたから、エホバの名前を呼ぶ者は奴隷の身分です。
新約時代のクリスチャンは、御子によって与えられた『イエス』の御名を呼ぶことができる『神の子』です。
クリスチャンは、キリストと共に神の御国を継ぐことを約束された者たちです✨
イエス様は、
『わたしが去っていくことは、あなたがたの益になる』と、言われました。なぜでしょうか?
弟子たちはイエス様を目で見て、行動を共にしましたが、イエス様の中に入ることはできず、また、イエス様が中に入ってこられることもできませんでした。
今、イエス様は天におられて、信じる私たちに聖霊を送ってくださっています。
聖霊は目には見えない方、見ることができない方です。
皆さんの中で、
『私は聖霊を見たことがある』という方はいらっしゃいますか?
『………』
いらっしゃいませんね? 安心しました(笑)
聖霊は、信じる者たちの中に入って働かれています。
イエス様が天にのぼっていかれるのを確かに見た500人の中にも、約束を待ちきれずに380人が離れてしまい、聖霊を受けられませんでした。
マルコの部屋の屋上で聖霊を受けた120人からはじまって、今の私たちにつながっています。
今もその時と変わらない同じ聖霊が、信じる者たちに臨まれています。
ひょっとしたら、もう聖霊
が臨まれているのに異言を語らないから気付かない人が、ここに座っている方々の中にいるかもしれません。
私たちは、聖霊が喜んで働かれる宮になるべきです。
イエス様は、私たちがじっととどまることを願っておられません。
今、私たちはイエス様の血によって、はばかることなく、聖所に入ることができるのですから、また幕屋をとおって、世に出ていかなくてはいけません。
ただただ、教会に来て礼拝を捧げて、学んで、何年もそれを繰り返して、それだけで満足していてはいけません。
聖所の燭台は聖霊を、供えのパンは御言をさしています。
そこに祈りがなければいけません。
御言を聞いても祈らないと、その御言は変質されます。
世的になり、神様から離れて、不平不満を言うようになります。
御言に祈りがあって、そこに聖霊が働かれるところが、クリスチャンの宮であり、教会であり、聖所です。
私たちひとりびとりが教会です。
また、そのひとりびとりが集まったところが教会です。
私たちひとりびとりは、また教会は、幕屋をとおって聖所に入り、また幕屋から出て、勇ましく世に出ていってだれにでも、罪をゆるして、救ってくださった方を宣べ伝えなければいけません。
それがイエス様の弟子であり、証人です。
『イエス様のまことの弟子、証人となることを願います! 主よ、私に力をください!』
と、イエス様の御名を三回呼んでお祈りいたしましょう!」
アーメン
まとめ Satoko.M

