「実を探される神様」2019年12月1日

2019年12月1日主日礼拝

 

 

聖書

ヨハネの福音書第15章1節~17節

マルコの福音書第4章26節~32節

マタイの福音書第13章24節~30節

ペテロの手紙第一 第1章23節

ルカの福音書第8章10節~15節

ルカの福音書第17章5節~6節

詩篇126篇5節~6節

コリント人への手紙第二 第9章5節~12節

ヨハネの福音書第12章24節

レビ記第23章23節~44節

コロサイ人への手紙第1章9節~12節

ローマ人への手紙第11章17節~21節

 

 


 

智慧宣教師メッセージ

 


「 私達の父なる神様は、農夫だとイエス様はおっしゃいました。

 

 

農夫は種をまいて、その実がなるのを忍耐して待って、一生懸命実を結ぶようにするのが農夫の心と働きです。

 

 

神様はこの世をそのような心で見ておられます。

 

 

実を結ぶことを願っていっらっしゃいます。

 

 

『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。』

<ヨハネの福音書15:16>

 

 

私たちはからし種一粒を見ても、神の国をどのように成し遂げていかれたのかを見ることができます。

 

 

 

種を見ただけではどんな果物かを知ることはできませんが、植えて実を結べば、それがブドウだ、りんごだとわかります。

 

 

 

種の中には命があり形があり、種の中に100倍、60倍、30倍の実を結ぶ、その秘密があります。

 

 

 

『だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちび、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』<マタイ13:30>

 

 

 

時には私たちの畑にも敵である悪魔が来て自分たちの考えをまいていきます。

 

 

 

そして、それが苦い根となって、私たちを苦しめます。

 

 

 

育った後に収穫する時が来て、神の審判がくだる時、誰が悪人で、誰が義人か。

 

 

 

良い実は倉に納めますが、毒麦は束にして火の中投げ入れられます。

 

 

 

これは天の御国に入るたとえです。

 

 

 

私たちがつまずく時、どういう考えが自分の中に入ってくるでしょうか。

 

 

 

聖書、みことばは神様の考えです。

 

 

 

聖書はとどまればとどまる程光りが入るから、暗闇がわかってくるので、私たちは分別して捨てることができます。

 

 

 

しかし、私たちが変わらない理由はみことばが奪われているからです。

 

 

 

『あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。』

<ペテロ1 1:23>

 

 

神様のみことばは朽ちない種です。

 

 

 

みことばが聞けないのは、悪魔が来て取り去ってしまうからだと聖書では言っています。

 

 

 

私たちの信仰は私たちの内にみことばがまかれたら、それが100倍、60倍、30倍育って実を結ぶようにすることです。

 

 

 

私たちの信仰生活もそれぞれ違います。皆さんの信仰が根をおろすまで、時間がかかります。

 

 

 

最初の5年間くらいは根をおろす期間としてとても大事です。

 

 

 

ですが深く根付いた木は、困難がきても揺れず丈夫です。

 

 

 

良い地に種が落ちると根をおろし、芽が出て実を結ぶに至ります。

 

 

 

彼らは立派な良い心でみことばを聞いてしっかり守り、忍耐して実を結ぶのです。

 

 

 

すべてすることが種です。

 

 

 

祈りをすることも、聖書を読むことも、福音伝道も、献金も、信仰すべてが種です。

 

 

 

実を結ぶまでには時間がかかります。

 

 

 

それを忍耐して実を結ぶまでに至る人でしょうか。

 

 

 

 

神様は実を探しておられます。

 

 

 

時と時期は神様にあります。実らせてくださる方も、成し遂げてくださる方も神様です。

 

 

 

だからどういう姿勢で、どういう思いで信仰すべきか。

 

 

 

信仰は年数が長いとかではなく、実があるかどうか。

 

 

 

主は見ておられます。

 

 

 

信仰はからし種だとたとえで書かれています。

 

 

 

大きな事を望んでいるのではなく、小さな信仰があれば、と語られています。

 

 

 

祈りも、伝道も、献金も種です。

 

 

 

『まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』<ヨハネ12:24>

 

 

 

イエス様の死も種です。

 

 

 

イエス様の一粒の種が地に落ちて死んだことによって、私たちは救われました。

 

 

 

イエス様の死が100倍、60倍、30倍となって実を結んだ。それが私です。

 

 

 

神様は実を結ぶことを願っておられる方です。

 

 

 

私たちが主にどういう実をささげるか。

 

 

 

ひとりひとりが実として主にささげられる人になってほしいです。

 

 

 

収穫感謝祭は旧約時代は仮庵の祭りと言って、神様がイスラエルの民をエジプトから救い出し、カナンの地まで導くまで、たくさん恵みを注ぎ、守ったその恵みに感謝する祭りです。

 

 

 

皆さんのために主がどういう恵みを与えてくださったか。

 

 

 

それを振り返るとたくさんあるのではないですか?

 

 

 

収穫感謝祭は主がしてくださったことを振り返り感謝する日です。

 

 

 

神様は実をさがしておられます。

 

 

 

今まであまり信仰生活がうまくできなかったとしても、ずっとここまで導いてくださったのは神様です。

 

 

 

だから私たちは枝です。ここまで来たことがどんなに感謝なことなのか。

 

 

 

イエス様がぶどうの木として、栄養を注いでくださるから、私たちはこの様に礼拝して、イエスの御名を呼び求めることができるのです。

 

 

 

皆さんがここにいるのは、自分が頑張ったからではありません。

 

 

 

私たちを支えてくださるのはイエス様です。

 

 

 

農業も種をまく時期、水をたっぷりやる時期、刈り入れる時期があります。

 

 

 

その時期を逃すと野菜の質が変わってくるそうです。

 

 

 

このように、私たちが種として植えられ、雨を降らしてくださり、満たすことは神様がしてくださる時期があるのです。

 

 

 

自分の畑がどういう時期か知ることです。

 

 

 

それをしっかりわからないと、ただ時間が流れていってしまうだけです。

 

 

 

いちじくの木も、実がならないと切り取ってしまう。これが神の審判です。

 

 

 

そのような神様の心を知って、種の秘密を知って、主が探しておられる実となって、自分をささげられたらと願います。

 

 

 

私たちには誇るものはひとつもありません。

 

 

 

なぜなら私たちを供給してくださるのは枝ではなく、根だからです。

 

 

 

神様がいらっしゃるから、私たちが実を結ぶことができるのです。

 

 

 

祈りも献金も伝道も、信仰すべてに種の秘密があると知って、神様は実を探しておられる方だとわかり、天に望みをおいて信仰生活を送ってほしいです。

 

 

 

主の中で、100倍、60倍、30倍となった実を持って主の前に行きましょう。

 

 

 

アーメンキラキラ

 

 

メッセージ要約 M.N