「人の子を愛する献身」2019年11月17日

2019年11月17日主日礼拝



聖書本

ヨハネの福音書第20章1節〜18節

ヘブル人への手紙第1章1節〜3節

ヨハネの福音書第2章19節〜21節

コリント人への第一の手紙第3章16節〜17節

ペテロの手紙第一 第1章15節〜16節

歴代誌第一 第16章29節

歴代誌第一 第29章17節

コリント人への第一の手紙第3章12節〜15節

ヨハネの福音書第17章21節〜26節





智慧宣教師メッセージ


「神様は栄光を受けるにふさわしい方です。



御子イエスキリストは父のふところにおられ、愛をたくさん受けました。



父なる神は、全てを御子の手に与えました。



父の御名、栄光の御名。万物を造ることも、さばきの権勢も、力あるわざを行うことも。



すべての栄光が御子の手に渡されました。



そのように父は御子を愛されました。




御子は父のふところで受けた愛をこの地にもあらわしたいという願いをもって万物を造りました。




『この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる神の右の座に着かれました。』〈ヘブル1:2〜3〉



父がどんなに御子を愛しておられたか。



でも、御子は神と同じである事を願わず、人間の形をとって低くなろうとされました。



それは父に栄光を帰するためでした。




人の体にも主の奥義があります。




御子が父に栄光を返すための道が人なんです。



だからイエス様は、体がある限り、体を尽くして、父なる神に栄光を返し、御心のままを行いました。




イエス様も私たちと同じ弱い体を持っていました。




お腹もすくし、眠たくなるし、疲れるし…




でも、その体を通して死に至るほど主につかえました。




『イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに46年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。」〈ヨハネ2:19〜21〉




イエス様はご自分の体を聖殿、神殿だと言っています。




私たちも聖霊によってイエスの御名を迎えた聖殿としてくださいました。




私たちは御子が父に礼拝をささげたように、私たちも神に礼拝をささげる礼拝者であり、




神に栄光を帰するために生まれました。




私たちの体を生きた供え物としてささげたら、父が御子の栄光をあらわしたように、私たちにも御子が受けたその栄光を賜ってくださる方です。




とても感謝なことです。私たちの望みは天にしかないと思います。




『あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。』〈第1コリント3:16〜17〉



私たちが神の宮になったということは、神を迎えるのに、聖なる者でなければなりません。



だから、毎日悔い改め、毎日イエスの血を頼り、神の宮である私たちの体を清めることです。




私たちがイエスの御名にふさわしい礼拝をささげることは、神に栄光を返すこと。



その御名にふさわしい栄光を返すことです。




私たちはイエス様の尊い血によって買い取られました。



父は御子を惜しむことなく私たちのために与えられました。




それが私たちの価値です。



私たちの価値は、イエスキリストを通して示してくださったのです。



では、私たちにとって神はどれくらいの価値があるでしょうか。



エリザベス女王に招かれたら、王宮に入る準備をして会いにいくはずです。




私たちも神を尊い方、偉大な方だと思うなら、礼拝に対する準備はどうでしょうか?




私たちは献金を用意して、何を着て、どういう心構えで主にお目にかかろうかと、清めた姿で会いに行こうと準備するのではないでしょうか。




私たちに対する主の愛の値、イエスの血の値が、皆さんの中でどれほどのものでしょうか。




私たちが、心を尽くして主の前に行くことを主は喜んでくださいます。



主につかえるということは、難しいことを願っているのではありません。



主はその心を見ておられます。



一生懸命つかえても、その中に真実の愛がなければ、それはうるさいシンバルに過ぎません。




アブラハムに神はひとり子のイサクをささげるよう言いました。




それはイサクが欲しかったのではなく、アブラハムの心が欲しかったのです。




主は最高の心を喜んでくださるのです。




そして、イサクをささげようとしたアブラハムを、主は友としてくださいました。




友とは、同じ位になるということです。




『わが神のよ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が、自ら進んであなたに献げるのを、私は喜びのうちに見ました』〈歴代誌上29:17〉




香油をささげた女も、年俸に値するほどの高価な香油を惜しむことくささげました。




それ程主を愛する心があったから。




その心を受け取ったイエス様は覚えていてくださいます。




主の記憶に残る、そのような献身を主にささげたのです。




私たちの中に真実の愛がないと、主は『私は知らない』とおっしゃいます。




だから、私たちがどういう心で神につかえるか。




真実の愛でなければ、何も残らないのです。




私を救ってくださった恵みと感謝が皆さんの中でどれほどか。




御子が体をもって父なる神に栄光を帰したように、私たちの体は神に栄光を帰する、神を輝かせるための体、神の宮です。



まず、御子を愛することが、父を愛すること。



この御子イエスキリストを愛し、イエスキリストに栄光を返すことが、父に返すことです。



御子が体を尽くし、父なる神を愛し、栄光を返したように、



私たちも体をもって、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なる神、イエスキリストを愛することが、主が受け取ってくださる献身です。




主に栄光を帰する、主から覚えられるひとりひとりになることをイエスの御名によって祝福します。」




アーメン✨