「神がくださる良心」2019年11月3日

2019年11月3日主日礼拝



聖書

マルコの福音書第14章1節〜9節

マタイの福音書第27章1節〜5節

ヨハネの福音書第1章1節

ヨハネの福音書第1章14節

ヨハネの福音書第5章24節

ローマ人への手紙第6章7節

ルカの福音書第5章8節

ヨハネの福音書第6章68節




研修から戻って来た智慧宣教師によるメッセージ




崔智慧宣教師メッセージ


「 神様の目で見た時、神の義ではない不義な姿は罪です。



そういう不義な私を清めてくださるのも、主のはたらきであります。



私は3ヶ月の研修の最後の時まで主が祝福してくださり、



感謝な思いで帰ってくる事ができました。



神様は義なる方です。



義とは基準になるものであり、義の反対は不義ですよね。



義から外れたことは全て、不義でありそれが罪です。



神様を知れば、何が罪で何が悪いのかわかります。



人には良心があります。



人も善し悪しがわかる。



それが『一般的な良心』です。



でも『神様がくださる良心』があります。



それは、人ではなく神様が基準となったものです。



神の義から外れると不義なのです。



韓国語の聖書で『善なる良心』と書いてあるのですが、



善なる良心があってこそ、私たちは何が罪で、何が正しいのかがわかります。



神様がくださる良心によって悔い改めに至ることができるのです。



でも、一般的な良心では、『これは悪い事をしてしまった、次はしないようにしよう』



と、なります。



信仰的な良心を持った人は、何が罪かがわかり、自分が罪人だとわかり、



その罪をもって主の前に行くことができます。



イエス様の弟子たちは皆、イエス様を裏切りました。



イスカリオテのユダとペテロも裏切りました。



ユダはイエス様を売った後に、無実の人を売って罪を犯したと思い、首をつって自殺しました。



罪は人には、になえないものなのです。



ユダは罪はわかったけど、罪悪感に落ち込み、主の前に帰る事ができなかったのです。



これが一般的な良心で悟った人です。



だから、悔い改めができない。



ペテロはイエス様を3度『知らない』と言って裏切りました。



でも、ペテロはイエス様がおっしゃったみことばを思い出して、みことばによって罪を悟りました。



これが、善なる良心、信仰的な良心です。



信仰的な良心で悟ったペテロとユダの罪人としての姿の違い。



みことばが基準です。



みことばはイエスキリストによって書かれたものです。


みことばが義です。



みことばを知らない限り、何が罪か、何が正しいかわからない。



私は研修先で、たくさん聖書を学びました。



でも、みことばを聞けば聞くほど私の心は苦しくなりました。



もちろん知る喜びもありましたが、



自分の罪がわかるから…神のみ前でどんなに汚いかわかるから、苦しくてたまらなかったです。



聖書の神様の基準では、心の中で憎む事も殺人だと書いてあります。



神様は心の中で犯した罪もあらわしてくださいます。



『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』〈ヨハネ14:1〉

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』〈ヨハネ1:14〉



ことばが人となって来られた。これがイエスキリストです。



私たち人間は皆、罪があります。



罪によって神様と私たちの間には壁がありました。



イエス様によって、私たちと神様の間にあった壁が崩されて、私たちは死から命に移されたのです。



私たちの身分は、ただ死ぬしかなかった、地獄に行くしかなかった者でした。



でも、イエス様によって死から命へと移された。



これは、どこに行っても受ける事ができない恵みです。



『まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。』〈ヨハネ5:24〉

『死んだ者は、罪から解放されているのです』〈ローマ6:7〉



罪から解放されて義とされました。



義なる方は神様しかいません。でも、こんな罪人の私を義としてくださいました。



神様と同じ性質、同じ姿にしてくださったのです。


どんなに大きな恵みでしょうか。



みことばだけが、私たちの霊魂を生かすことができます。



この世の中で、どんなにボランティアをたくさんしたとしても、私たちの罪が清くなることはできません。



私たちを清めることができるのは、ただことばしかないんです。



だから、『イエス様なしでは生きられません』という告白ができるのです。



『するとシモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。』〈ヨハネ6:68〉



永遠のいのちはただイエス様です。



神のことばは純粋です。つまり、何の混じり気もないことばです。



聖書では万物の創造を見ても、神のことばが純粋に成し遂げられたのを見る事ができます。



でも、私たちはひとつのみことばさえも私の中で成し遂げられない。なぜなら純粋ではないからです。



ペテロも最初はまだ純粋でなく、足りない者でしたが、



イエス様が純粋な心になるように、清くなるように、教え、導いたのです。



そして、最後には『わたしの子羊を飼いなさい』と言われます。



これは最初に言われた『人間をとる漁師にしてあげよう』と同じ意味です。



『使徒の働き』を読んでください。



この後ペテロは変わり、3000人の前で大胆にイエス様を語るのです。



神様のみことばが成し遂げられるためには、私の中の汚いものを清くする過程があります。



過越の祭りで食べる『種無しパン』がありますね。



パンはみことばです。



種がないとは、不必要なものが入ってないことです。



種無しパンを食べると言うことは、神様のことばを純粋に食べるということです。



でも、自分の傷にしばられている人は、



『私は愛されたことがない』
『人にいつも裏切られる』



と、純粋なみことばをそのまま信じられないのです。



私の中でなぜ、ひとつのみことばが成し遂げられないのか。



私の中で義があまりにも強く、神の義でなく私の義があるから、みことば注がれても信じられなかったのです。



私も聞きたいみことばだけを聞いていました。



主が教えようとするみことばがあっても、それを聞くことができませんでした。



私は主のみ前で悔い改めました。




ナルドの香油を注いだ女は、主のみ前で罪深い者でした。



でも、悔い改め、



『私が生きる道はあなたしかありません』



と高価な香油を割ってイエス様に注いだのです。



私たちの教会も、もうすぐ献身礼拝です。



私たちが主の前でささげられる、純粋な香油は何なのでしょうか。



主は純粋で清いものを受け取ってくださいます。



本当に純粋というのは、計算もなく頭の中で考えずに、



『私は主のみ前で罪深い者ですが、でも主よ、永遠のいのちがあなたにあるのに、私がどこにいけましょうか。私が生きる道はあなたしかいません。』



とささげていくのです。



私の持っているどんな罪も、責めるのではなく、ひれ伏した時に罪深い姿も愛してくださり、赦してくださいます。



献身礼拝まであと3週間、心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くし、精神を尽くして、主を愛する。



そのような皆さんの献身になって欲しいと思います。」




アーメン✨



メッセージ要約 M.N