「良い麦と毒麦」2019年10月27日

2019年10月27日主日礼拝



聖書

マタイの福音書第13章24節〜30節

ヨハネの福音書第21章21節〜22節

ペテロの手紙第一 第5章5節〜7節




職分者によるメッセージ




藤本牧羊師メッセージ


「 今日は、私の今までの信仰の道をお話ししたいと思います。



それは、立派でも、かっこよくもなく、



かっこ悪い道でした。



私は、バプテスマを受けて9年になります。



9年前神戸に住んでいましたが、当時は悪霊にやられてやられて…



頼りにしていた霊媒師にも見放され…



そんな時にイエス様が私を助け出してくださり、救ってくれました。



そこから信仰が始まりました。



そして、神戸で6年間一人で信仰生活を送っていました。



信仰もまだ始まったばかりで、簡単なことではありませんでした。



子供も小さく、泣いたりするので礼拝に集中できず、



子供が寝ている夜中3時に、教会から送られてくるDVDを見ながら礼拝をささげました。



悪霊も必死に自分で追い出ししました。



最初はできなくて、牧師先生に助けを求めたのですが、



次第に自分で追い出せるようになりました。



6年後、北九州に主人の転勤で戻れることになりました。



その時、『私は子供も小さい中で礼拝も一回も欠かすことなく夜中にささげて守ってきたし、やり遂げた。私はすごい』



と、自分の信仰がある程度成長した、と思ってしまっていたのです。



そして、北九州に帰って来て、これからは皆さんと礼拝がささげられる、と最初喜びがありました。



しかし、礼拝後の交わりの時に、皆さんの証しを聞きながら、語ることがないのです。



一週間、信仰生活ではなく、肉的生活を送って来たので、語ることがありません。




金曜礼拝で皆さんとみことばを分かち合う時も、




皆さんが、どこをどう読んだらそのような解釈になるのか、私には分からず、難しかったのです。




また、礼拝場に入るのを嫌がる子供たちを見て、



子供に対しても、信仰に立って見ていなかったことに気づきました。



次第に、礼拝に行くことが辛くて苦しくなりました。



そして、神戸での信仰生活を振り返りました。




祈りも、聖書を読むことも、礼拝をささげることも、自分が悪霊にやられないためにやっていたのだと悟ったのです。



とても失礼な信仰者でした。



自分が粉々に砕け散りました。



礼拝をささげることが、苦しくて憂鬱でした。



『礼拝をさぼろうか』とも思いました。



でも、それもできない。



どうしたらいいのか…。



それで、皆さんのような信仰に近づくと解決するのではないかと、誰にも言わずに必死に祈りました。切に祈りました。



そのうち、イエス様を求める祈りが喜びに満ちあふれるようになり、




礼拝に行くことも喜びに変わり、寝ても覚めても喜んでいる自分になっていました。




憂鬱だった金曜礼拝の導きも担当させてもらうようになり、さらに喜びが満ちあふれました。



すると『イエス様を求めて祈ったから、喜びがあふれて、イエス様が分かる様になった。他の人を導くこともできたし、私はすごい』



と、思うようになったのです。




しかし、周りの人と交わる中で、色々な事があり、



私はイエス様を求めて愛し、喜びがあふれながら、目の前の人達すら愛することができない汚い心を持っていたことに気づき、泣きました。



イエス様の心を何もわかっていない自分がいて、一人でどうしていいかわかりませんでした。



その時、韓国の教会の修練会に参加する機会に恵まれました。



私はその修練会で、イエス様が必ず答えをくださると、期待して行きました。



でも、帰って来て、私の中が空っぽだったということを悟りました。



私の中に、イエス様も、愛もなかったことがわかったんです。



それだけがわかりました。



帰って来てから、クローゼットの中に入って、一人で3日間泣きました。



一生懸命頑張ってきて、喜びをくださったり、周りの人とも関わったりしましたが、



まるで赤ん坊が親の顔を見て、何も知らずにただ笑っているような者だったのです。




『何でイエス様は今頃このように気づかせるんでしょうか。私は皆さんに近づきたくて、頑張ってきたのに』




前に進むことができませんでした。




『どうしてイエス様は私に愛を見せてくださらないのですか?』



私は泣きました。



ある時、良い麦と毒麦の違いについて書いてある文を読みました。



成長する過程では似ていて見分けがつかないのですが、



収穫の時、毒麦は真っ直ぐ伸びて、良い麦はこうべを垂れるように生えるそうです。



それを読んで、私は自分がどういう麦が考えました。



私は上に伸びて、見た目をかっこよく見せようとしていました。



私は人を愛することもできない汚い心を持ち、弱くて愚かで、


毒麦と間違えられても仕方がないものだ、と思いました。



『だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』〈マタイ13:30〉




イエス様は毒麦のような私を、少しでも良い麦になるように、手入れをしてくださり、変わるのを待っていてくださる方なんだと思いました。



私はイエス様の愛を求めて、



『どうして愛を見せてくださらないんでしょうか』



と、祈っていたのですが、イエス様の愛が私の中にすでにあったんだと気づきました。




私は他の人と自分を比べていたことにも気づきました。




人と比較することが大事ではなく、イエス様との関係が大事であり、イエス様とどう向き合っていくのかが大事だと悟ったのです。



『若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神はちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。』
〈ペテロ第一 5:5〜6〉



イエス様は私をへりくだって、恵みを受けるように触ってくださっていたのです。



私は自分では、へりくだることは難しいことではない、と思っていました。



目立って、おごり高ぶる者ではないと。





しかし、自分の弱さ、足りなさ、汚さを見た時は涙があふれ、へりくだることが難しかったです。





自分の力ではへりくだることができない。





でも、イエス様が少しずつ触ってくださって、へりくだることができるようにしてくださったのです。




今、私の状態は、まだ毒麦のような部分がたくさんあります。




これから、たくさん涙を流しながら、自分の足りなさ、弱さを知って、



愚かな者だと知っていく必要があるし、イエス様がそうしてくださる道になるだろうと思います。



最後の時に、誰よりも低い麦で、実が一つしかついてない麦かも知れません。



それでも、イエス様の御前でこうべを垂れる麦でありたいと願います。」





アーメン✨



メッセージ要約 M.N




アーメン✨




メッセージ要約 M.N