2019年10月6日主日礼拝
聖書
コリント人への手紙第一 第1章18節〜31節
ヨハネの福音書第14章12節
崔牧師メッセージ
「皆さん、自分がどうして信じたことを伝えようとするのでしょうか。
自分がわかったからですね。
有名なラーメン店や焼肉屋も、お客さんがどうして列に並んでまで食べるのでしょうか。
味がわかったからですよね。
私達は色々なことを選び取っています。
選び取る権利があります。
何を今、私達は信じているのでしょうか。
イエスキリストの十字架を信じるとは、どういう意味でしょうか。
『十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。』
〈コリント11:18〉
滅びる者たちにはどうして愚かだったでしょうか。
パウロは律法学者でした。
律法によっては、キリストはけしからん、という存在でした。
神を二人造るようなことであったからです。
律法は人をさばくのが役割です。
そういうパウロが、光と出会い、御霊に導かれる人となりました。
私達も以前は滅びる者でした。
当時、十字架は生きていも仕方がないと思う人を死刑にするためにつける、呪いの木でした。
キリストがその十字架につけられたのです。
立派なみわざはしたが、自分を『神の子』と言ったのです。
神の子とは、神ということ。
地上にいる人が、
ヨセフの子供が、どうして神か。
神が二人いることになります。
信じる人にはわかりましたが、信じない人には大変なことでした。
多くのみわざをしながらも、そういう人が十字架の刑を受けることは、愚かなことだったのです。
滅びる人には愚か。
救われる人には神の力です。
イエス様は罪のない方でした。
どうして罪のない方が十字架にかけられないといけなかったでしょうか。
聖霊はイエス様が罪のない方だと弁護する、弁護者です。
罪のない方が、あなたの罪のために十字架にかかってくださいました。
あなたを救うために。
罪がないから、甦られました。
だから、イエス様は復活されたんですよ。
と、教えてくださいます。
聖霊が臨まれた弟子たちも、受ける前と後では働きが違いました。
聖霊が臨まれたら、『イエスはよみがえられた』とはっきりと語りました。
罪のない方が、父の命令に従って、自分を低くして、
私達のために血と水を流してくださいました。
この様に、十字架は、人の弱さ、人の貧しさ、罪、暗闇、人の呪い…それら全てをイエス様が背負ってくださったのです。
それによって律法から解放され、闇から光へ、死から命へ、罪から赦しへ、変えられました。
十字架の力は、人の弱さをになってあげる力があります。
『神の力』
その方があがないとなられる。
十字架がよくわかると、今までしてくださったのは、人でも自分でもなく、全てイエス様だとわかるのです。
それが、私達の信仰、神の力です。
十字架から始まったのです。
いくら立派な牧師でも、イエス様の助けがないと生きられない。
人とはそういう者です。
イエス様が義なら、私達は不義です。
イエス様は救い主、私達は罪人です。
『兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。』〈コリント1 1:26〉
私達がどこから選ばれたか。
だからこそ、十字架の力はすごい力なんです。
私達を救ってくれたからです。
『イエス様、私があなたの美しい手足となりますように』
と、祈っていきましょう。」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N
