「主が受け取る献身」2019年9月29日

2019年9月29日主日礼拝



智慧宣教師による献身礼拝のためのメッセージ②



聖書本


ヨハネの福音書第21章15節〜23節

コリント人への手紙第二 第13章13節

エゼキエル書第28章13節〜19節

マルコの福音書第7章25節〜30節





智慧宣教師メッセージ


「私たちの神様は、栄光を受けるにふさわしい方です。



御子は創造前から父のふところに共におられ、そして父は御子をとても愛していたので、



すべての万物を御子の手に渡し、神の御名を渡されました。



御子は愛を受け、万物に神の愛を示そうとされ、死に至るまで従順されました。



“御名”というのは栄光です。



私たちが何か賞を取ったり、褒められる時、名前が学校に飾られたりして、その名前に栄光が与えられますよね。



御子は神の御名を持ってこの地に来られ、



その栄光を、その愛を示しました。



それは御子ではなく、神の栄光でした。



父と子と聖霊はひとつですが、



御霊の働きがあります。



『主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』〈第二コリント13:13〉




『聖霊の交わり』とは、付き合いという意味があります。



父と御子の付き合いを、聖霊は私たちに教えてくださいます。



創造前からおられた父なる神の愛を、私たちは聖霊によって知ることができるのです。



『私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエスキリストとの交わりです。』
〈ヨハネ第一 1:3〉



聖霊が臨まれたというのは、神のものだという証印を押してくださったということです。



私たちの霊魂は、神の宮となりました。



父が御子に渡した栄光を、そのまま私たちにくださった。



それはイエスの御名です。



イエスの御名を渡されたとは、御子だけでなく、私たちにも栄光を与えてくださった。



ここに、私たちの価値があるのです。



このように、世の中で何も知らずに歩んで来ましたが、



誰かを通して伝道され、神を知ることができ、神の子となり、



イエスの御名を与えてくださった。



これがどんなに素晴らしいことでしょうか。



御名を汚したのは、堕落した天使です。



美しかった天使が、自分が輝き美しいのは自分のものだと高ぶり、傲慢になったのです。



堕落した天使の傲慢は、自分の姿の中で、自分ができると思ったこと。



私たちに照らして見るとどうでしょうか。



『私は〇〇ができるから、これをしよう』



と、思うのも傲慢ですが、



『自分は何もできない。時間もお金もない。神様にできることなんて何もない』



これも、傲慢です。



自分の姿の中で主に何か仕えようとするのも傲慢なんです。




私たちが神様を愛するから自分のできることで捧げようとするのも献身ですが、



私たちには、イエスの御名が与えられました。



私たちにくださった御名は、御子が自分の血を流してくださった、イエスの血が含まれているのです。



罪人は自ら生きることもできないし、罪人の持っているもの、汚れたものでは主は受け取ってくださらないんです。



義がないのが罪人です。



こんな罪人だけど、この罪をイエス様に持って行き、イエス様に渡し、



イエス様の血によってきよめられるのが、献身の第一歩です。



私は聖書勉強しながら、みことばを知れば知るほど自分は罪人だということが、どんどん現れてきました。



罪が現れた時に、



『イエス様の血を頼ります。イエス様の血になしには生きられない』



と悟りました。



これが信仰です。



皆さんの持っている弱い姿や、足りない姿といったところに閉じこもっていることを、主は喜びません。



イエス様を頼る信仰があってこそ、主が受け取ってくださる献身なんです。



私たちは罪人です。



イエス様なしでは生きられない。



私たちの献身は、汚れたままでは主は受け取ってくださらないのです。



皆さんの持っている姿、弱さ、劣等感、悲しみ…



そのすべてを主に持って行かないいけない。



イエス様に願い求めて、すべて主に移されて、主の赦しを得て捧げていくのが献身です。



『何もできない』というのは、謙遜ではありません。



一人一人のささげる献身が、主が喜んで受け取ってくださるものであることを願います。



香油のつぼを割ってイエス様に注いだ女も、罪人だと周りから指差されていましたが、



イエス様から罪を赦されたから主を愛することができ、香油を注いだのです。



ペテロは三度イエス様を『知らない』と言いました。



そして、イエス様は死なれたから、どんなに心が絶望していたでしょうか。



でも、イエス様はペテロの元にもう一度来てくださり、



ペテロは罪の赦しを得たから、人間を取る漁師として、堂々とイエス様を伝える人になったのです。



罪人のペテロがどうしてイエス様を伝え、命をささげるまで出来たか。



それはイエス様に赦され、イエス様はそういうペテロのためにも血を流してくださったから。



赦してくださり、愛してくれたからです。



ペテロの絶望が、イエス様に移され、新しくなったのです。



それにより、ペテロの姿が完全になり、おろした網が破れなかったのです。



『たくさんゆるされた者がたくさん愛することができる』



私たちが罪人であるから、イエスの血を頼り、罪の赦しを得ることにより、愛することができるんですを



『私は罪人です。弱いです。時間もお金もないし、できることはありません』




これは、イエス様に対する愛がありません。




毎日が献身ではありますが、私たちは11月に献身礼拝をささげます。




どのように主に仕えることごできるか、



どのようにささげていけば良いか。



どうしたら主に喜んでくださるか。



求めながら、イエス様の血を軽んじず、イエス様を頼り、



主が受け取ってくださる献身をささげていくようにと思います。



恵みは主が一方的に与えてくださるものです。



私たちは主の恵みにより、愛により、今この場にいます。



主の愛を忘れずに、どこから救われたのか。



こんなに愛してくださった主に応えて、



私にあるすべての罪をイエス様の血によってきよめてくださり、



主が受け取ってくださるささげものとなりますように、と祈っていきましょう。」




アーメン✨




メッセージ要約 M.N