2019年9月22日主日礼拝
智慧宣教師による献身礼拝のためのメッセージ
聖書
ローマ人への手紙大12章1節〜2節
ヨハネによる第一の手紙第4章2節
ピリピ人への手紙第2章1節〜11節
ヤコブの手紙第2章23節
ルカによる福音書第7章47節
使徒行伝17章25節
智慧宣教師メッセージ
「 献身とはなんでしょうか。
一番最初に献身した方はイエス様です。
父の愛を受けた、父のふところにいた御子が、父の愛に応えようとするまで従順であられた。
これが献身です。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』〈ローマ12:1〉
『私をささげる礼拝』これが献身です。
すべての礼拝は、自分をささげること。それが生きた礼拝です。
天地が造られる永遠前から父のふところに御子が共におられ、
その父の愛が充満に満たされた時、父から受けた愛をあらわしたいと思ったのが、御子の心です。
ことばが肉体となってあらわれたのがイエスキリストです。
父のふところにいる御子は、父と同等にいることを願わず、天使よりも低くく、人として来られました。
受けた父の愛を独り占めするのではなく、すべての万物に愛を示したいと人として来られ、
そして、死に至るまで従順されました。
それが、御子の御心です。
父は、御子は自分をささげることが幸せだったのでそのままにさせました。
『肉体』はギリシャ語で『肉のかたまり』という意味があります。
御子が父にささげものとして、自分をささげたのです。
だから、御子は肉体を持ってこられました。
その方は神と同じだけど、低くなるだけでなく、
死に至るまで従順でありました。
御子の父に対する愛であり、その方が受けた愛をそのままあらわしました。
それが、父の栄光をあらわすことでした。
私達とキリストは何の関係があるでしょうか。
キリストが流してくださった血によって、私達がキリストとひとつになり、
御子が父にささげたように、私を神にささげるのが礼拝です。
私達を神様がどれほど愛してくださったでしょうか。
私達、罪人である人のために、十字架にかかり血を流して死んでくださったのです。
私達は罪人です。
私達の罪は、自分自身では洗い流す事ができません。
私達は、イエスの血なしでは、生きることができないんです。
私達の受けた愛に応えて、神様をたたえる。
これが主の日です。
自分のことばかりでなく、こんな私を救ってくださった、死から復活されたイエスキリスト御子をたたえ、父をたたえる。それが主の日なんです。
礼拝はイエスの血なしでは、父の前に行くことができません。
旧約時代では燔祭があり、大祭司一人が聖殿に入り、獣の血により至聖所に入る事ができました。
父が受けられる燔祭は、獣の肉のささげものだと、天から火が降りて、それが父が受け取ったあかしでした。
アブラハムはイサクをささげ、実際に剣を下ろそうとする時に、神はアブラハムの心を見ました。
だから、神の友と呼ばれました。
『こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである』〈ヤコブ2:23〉
神が受け取る礼拝は、必ず受け取ったというあかしがあります。
私たちの力では、イエス様を愛する力がありません。
私たちがイエス様から愛を受けないと、主に愛をささげることができないのです。
11月にある、今回の献身礼拝のテーマは
『私がイエス様を愛します』
です。これはペテロの告白のことばからです。
『わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です』
ペテロはなぜこのような告白しかできなかったのでしょうか。
ペテロは最初、『あなたのためには命も捨てます』と自信満々に言いました。
しかし、3回知らないと言ってイエス様を裏切りました。
イエス様はペテロの弱さも知っていたのです。
ペテロはイエス様を愛していると思っていたのに、愛していなかったことを悟ります。
復活された後、イエスはまた姿をペテロにあらわされました。
最初の時の網は破れましたが、再び来られた時は網は破れませんでした。
イエス様の愛によって、ペテロが完全になったのです。
その愛に応えて、ペテロはイエス様の弟子としてはたらきに出て行ったのです。
ペテロが受けた愛は、最後まで愛してくださるイエス様の愛です。
だからペテロは殉教するほどにイエス様を愛して、福音を伝えたのです。
これが私たちがささげる献身です。
私たちは受けた愛によって愛することができる。
私たちがささげる献身が、頑張りによって、私たちの満足で終わると献身になりません。
主が受け取ってくださらないと、献身にならないのです。
献身と言うと負担に思う人もいるかも知れません。
『持っているものなどないのに、まだ時間やお金をささげないといけないのか…」
でも、神様は与えようとするお方です。
『また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、』〈使徒行伝17:25〉
神様は不足しておられる方ではありません。
その方は、充満に満たしている方であり、
何かに頼る方でもありません。
大事な御子を与えてくださるほどに愛してくださる愛は、何ものにもかえられません。
そして、御子は父に死に至るまで従順されました。
父が受け取ったあかしとして御子が復活した。
これが御子が見せてくださった献身、そして、御子を通してあらわしてくださった愛です。
私たちが弱いのは当たり前です。
だからこそイエスの血を頼るんです。
でも、『私は弱いから何もできない』というのは、傲慢です。
イエスの血は私たちを死から命へと移してくださったのです。
だから、イエスの血をわかって、私たちが主の愛をあらわすのが献身礼拝です。
どういう愛を受けたのでしょうか。
その愛を形としてあらわし、
主が受け取る献身になるように準備してほしいです。
『主よ、私が受けた愛は何にも代えられない愛です。その愛を主に捧げたいです。主の御心を教えてください。主が受け取ってくださる献身礼拝になることを願います。私を主に捧げたいです。私を導き助けてください。もっと神の愛を知ることができるように助けてください。』
と、神の愛に感謝しながら、求めて祈っていきましょう」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N

