2019年7月7日主日礼拝
聖書
ヨハネによる福音書第15章12節〜17節
箴言第10章12節
崔牧師メッセージ
「信仰生活は、イエス様の事を知ることです。
イエス様を知って、近づく。
知らない人は遠ざかります。
知って信仰が深くなる場合もあるし、
嫌なことがあったら、離れる人もいます。
でも、イエス様を知れば知るほど、嫌な事がないし、イエス様に近づくのです。
だから、知ることが大事です。
『わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。』〈ヨハネ15:15〉
知らないから面白くないけど、知ったら楽しいし、面白いんです。
全知全能なるイエス様をどれだけ知って、体験しているか。
知れば知るほど偉大さがわかります。
知らないから、何の体験もなくて遠ざかるんです。
『御子を知ることが永遠の命』だと、聖書に書いてあります。
知るとは信じること。その方を体験することです。
それぞれが病気や讃美、祈り…様々な事を通して、イエス様を体験しているはずです。
でも、イエス様を知らないと体験もないし、信仰生活が面白くなくて、苦しいです。
知れば知るほどその方を喜ばせようという思いがわくのが、私たちの信仰です。
ですが、イエス様がわからないと、信仰はきつい。
勉強も運動も、ある程度の段階に行くまではきついですね。
マラソンも息が苦しくてきついですが、ある時になると呼吸が安定してきつくなくなる。
何でも最初から、パッと上手くはできません。
ですが、信仰生活もある程度になると、何をしてても『イエス様』と頼るようになります。
その段階になると、すべてが上手く回ります。
『わたしの父から聞いたことを皆、あなたがた知らせたからである』
イエス様はすべてを知らせて、『友』と呼びました。
今週、私は悔い改めに導かれました。
神の御子が私たちを友と呼んでくださっているのに、私は皆さんをどう思っているのか?
本当の友なら、すべてを言えるし何を言っても理解してくれます。
『主』は救い主という意味です。
『あなたからの助けがないと、生きられない』
そういう関係です。
イエス様はすべてを知らせて、『これからは友』
とおっしゃってくださいました。
なのに、私は教会の兄弟姉妹に対して、友と呼べたのか?
『憎しみは、争いを起こし、愛はすべてのとがをおおう。』〈箴言10:12〉
このみことばが与えられました。
とがをおおうとは、になうという意味です。
その方の良くない行い、あやまち、姿勢、態度、考え…すべてですよ。
私は真の友になっていませんでた。
イエス様が友である私のために、血を流してくださり、十字架にかかってくださり、私のすべてを負うてくださった。
その方の愛が十字架の愛と知っていながら、
皆さんの弱さ、足りない部分をになえる事ができたのでしょうか。
私の口では愛を語っているのに、全然なってない自分がいました。
『私がここまでしてやったのに。』
という思いが湧いてきて、寂しく思ったり、
人を裁いてるんですよ。
イエス様はこんな私を友と呼んでくださるのに、
どれだけ、高ぶっていたんでしょうか。
何かあると上から目線になっていました。
本当に仕える思いがあれば、どんなに足りなくても、間違っていても、寛容な心でになうべきでした。
友と呼んでくださるイエス様の御前でとんでもない事です。たかぶって。
皆さんの前で申し訳ない思いでした。
憎しみは争いを起こすんです。
気に入らない、赦さない思いは積もり、結局は争いになって憎しみにまでになります。
でもイエス様はすべてのとがをおおう方です。
私がもっとあわれみ深く、どんな方でも、低くなって関わっていく。
イエス様が失敗だらけの弟子たちに、どれだけあわれみ深くなさったか。
『私が選んだ』
と、おっしゃり、最後まで愛された方です。
足りないところやとがを責めるのでなく、友と呼んでくださる方だから。
イエス様は父から賜った教えすべてを弟子たちに伝えたと思います。
天におられるイエス様が私たちを友と呼んでくださるのです。
『愛はすべてのとがをおおう』
人のあやまち、足りない所を負ってあげられるような、あわれみ深い愛をもって関わっていきましょう。
『私が足りなかった』と笑顔で、人のせいにするのではなく、自分の足りないところに目を向けて、兄弟姉妹と関わっていきましょう。」
アーメン✨
メッセージ要約 M.N

