2019年3月17日「まことの平安をくださる主」

2019年3月17日主日礼拝




聖書


マタイによる福音書第11章28節〜30節


『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』



職分者によるメッセージ



智慧宣教師メッセージ



「神はまことの平安を与えてくださる方です。


ですが、今日のこのみことばは、私にとってはなかなかできないみことばでした。


単純なみことばですが、私は神様に対して難しかったです。



なぜか。



私が神様を誤解していたから。


私がちゃんと正しく神様を知らなかったので難しかったです。


私は大学を卒業して、神様のはたらきのためにお手伝いしたいと、まずは一年、時間を自由に使えるようにと就職せずアルバイトをしながらつかえ始めました。


そうしながら、いつの間にか自分の力で何かしようとしていて、


私は神様に『このようにしたい』という思いがあるのに、


それが自分の思いばかりになっていました。



神様の思いを知るよりも自分がこのようにしたいという欲になっていて、神様がくださる思いでなければ、間違った欲だと気づいて悔い改めました。



最初は良い思いで始めたのに、その中で神様に対して正しく知らないから、



段々と誤解が生まれ、



神様と溝が広がりました。



『重荷を負うて苦労している者は、私のもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』


と神様はおっしゃるのに、



疲れている姿を神様に見せることができませんでした。



私は高校3年の時に、



『なんで、私はここ(日本)にいるんだろう』


と、思いました。



私は小学生の頃、父である牧師の宣教のために、


家族について日本に来ました。


最初は、海外に行けるという嬉しい気持ちもありました。


日本での暮らしは、大変なこともなく、


優しい友達もいたし、


先生もケアしてくれたし、


いじめられることもなく、平和に暮らしました。


しかし、高校生になり、進路を決める頃



『私は何をしたらよいのか。私は何者か?』



と思い始めました。



韓国人なのに、日本語しかまともに話せない。韓国の歴史や文化も知らない。


韓国人でありながら、韓国人でないという思い。



そして、


『何故私をここに連れて来たのか。』



と、神様に対してうらみ始め、



それから両親に対してもうらみ始め、



ずっと続いたその思いを神様に見せた時に、神様は私の心を休ませてくださいました。



『あなたはついて来たと言ったけど、私があなたを呼んだ。あなたをここに来させたのは、私だ』


ということばをくださいました。



そして、大学に行き、色んな環境な人達に出会いました。



私は私の世界でしか見られなかったんですが、



同じ悩みを持っている人もいたし、慰めを与えてくれる人もいたし、信仰の友にも会わせてくださいました。



そうしながら、いつ間にか神様に自分の疲れている姿を見せなくなっていました。


『見せたところで、自分の問題がすぐに解決されるわけではない』



と、聖書を読むことも、祈ることもしないくせに、


『私はキツイです』


これしか、神様に言ってない自分がいました。


霊魂が生きるためには神のみことばなしには生きてはいけないのに、


みことばを食べるわけでもなく、自分の事情ばかり話していました。


神様の思いを知ろうとしなかった。


そして、神様と溝ができ、誤解が生まれ、ひれ伏すことができませんでした。


とても傲慢でした。


カインとアベルのカインのようでした。


神様はアベルのささげものだけを受け取ります。


カインはなぜ神が自分のささげものを受け取ってくれないのか、自分の中に理由を探すことなく、


アベルがいるから、私のものを受け取ってくださらない、とアベルのせいにしました。


そして、アベルを殺しました。


私自身がこのカインのようでした。


そした、神様に悔い改めました。


私も神様との溝の中で、


自分自身からあやまちを悟ることなく、ただ誰かのせいにしたり、環境のせいにしていました。


うらむばかりで、自分を被害者のように思っていました。


その事を神様が悟らせてくださいました。


アダムとエバはへびに誘惑され、神様のみことばに不従順する世の中のものが美しいと見え始めました。


私の目も、大学を卒業して就職している人達が羨ましく見えて、世の中が美しいと思い始めていました。


世の中には命がないのに、そこに命があるかのように、


そこに私が生きる場所があるかのように見えて、


そうしながら、神に仕えることも、教会に仕えることも、喜びがなくなります。


神様がまことの平安と喜びを与えてくださるのに、


そういう信仰が全くありませんでした。


私は『神の愛は、私がこうしたら神様は私をかえりみなくなる』


という思いがありました。



しかし、神様がみことばを与えてくださって、



私達がどんなに尊い存在であるのか、



万物を創造される前から人間を愛してくださり、祝福してくださっている。



これは前から決まっているのに、神の愛は永遠ではなく、


『こうしたら神様から嫌われる』


と、思っていました。


しかし、『現在のものも、将来のものも、神の愛から私を切ることが、できない』


この真理が私を自由にしてくれました。、


このみことばがわかって、どんなに感謝なことでしょうか。



こんなにも小さくて足りない私に、



『私の元に来なさい。平安を与えてあげる』



と、おっしゃってくださる神様に感謝しています。


神様のへりくだった、柔和な心をもっと学んでいきたい。


そうする時に、


『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』



このみことばがわたしの中で成就することを願います。



皆さんも共に歩んで行きましょう。」




アーメン!



メッセージ要約   M.N