2018年11月18日主日礼拝
聖書
エペソ人への手紙第2章第1節〜10節
崔牧師メッセージ
「
私たちが救われたのは、神の恵みによります。
自分の力によるものではありません。
『あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である』〈エペソ2:8〉
『私はこれくらい奉仕したから』『私がこれくらい献身したから』とかではないのです。
ただ信じただけです。
神はすべての事を赦してくださいます。
ただ、信じないことが罪なのです。
金持ちも貧乏人も、殺人者も、傷付けた人も傷付けられた人も、皆信じれば救われます。
救いは行いによるものではないのです。
どんな人でも救われます。これはただでくださった恵みです。
神が私たちの罪をゆるしてくださったから救われたのです。
恵みによって救われたことを軽んじると、人の言葉にすぐ惑わされます。
救いがちゃんとわかっていると、人をゆるしてあげられますが、
人はやられた事、傷付けられた事ばかり考えます。
イエスの恵みはどこにあるのでしょうか。
救われた人の心には喜びがあります。
何かのしばりから解放されています。
信仰は自由です。信じたくなければ、信じなくてもいい。
しかし、私は信仰によって自由になり、解放されました。
これは、私にとって恵みです。
だから、喜びと平安があります。
美味しい食事をしたり、良い音楽を聴いたり、お酒を呑みながら愚痴を言ったり、
好きな旅行をしたり、スポーツしたりする方が
もしかしたら楽しく感じるかもしれません。
でも、肉の楽しみは一瞬です。
しかし、イエス様がくださる信仰による恵み、自由平安は、自分が力を入れなくてもいいんです。
世の中は『もっとやれ!』『もっと頑張れ!』でしょう?
教会は頑張らなくていいんです。
ちりのような私がするより、全知全能のイエス様がしてくださるほうが大きな力だから、ゆだねれば良いんです。
以前の私は、人に『もっとやれ!』『これもできないのか⁉︎』と負担をかけてきました。
人に厳しかったのですが、最近は何かあっても『いいんじゃない?』と言えるようになりました。
イエス様はからし種のような信仰でも、山は海に動かせるとおっしゃいました。
からし種は本当に小さな種です。
山ほどの大きな信仰をイエス様は求めているのではないのです。
『私は何もできません。私の力では無理です。
あなたがしたください。』
と、自分を捨てて、主にゆだねた時に、信仰のすごさがわかったのです。
神がはたらいてくださる。
“わたし”ではないのです。
ゆだねることを主は喜ばれるのです。
私は以前、人に『もっと戦え』と人に強く求めていたのですが、
今は『自由にしてください』『いいんじゃない』と言える様になりました。
信仰はあるんだから。
その人なりの信仰の歩みがあります。
人は神のようにはできない。
慰め、励ましてあげればよいのです。
イエス様は
『なんで信仰が薄いのか⁉︎』とおっしゃる方ではなく、
『信仰の薄い者たちよ。』
とさとしてくださいます。
聖書では『柔和な心で教えなさい』
とあります。
イエス様の愛は限りなく、海よりも深い愛です。
肉によって頑張ろうとせず、霊によって生きる。
自分自身にも厳しくしないで、自分をゆるしてあげないと、きつくなりますよ。
自分にも『いいんじゃないか』と言いながら、すべてをゆだねましょう。
救いと天国に行く道も、イエス様が導いてくださいます。」
アーメン

メッセージ要約 M.N
