2018年11月4日「いのちの道」

2018年11月4日主日礼拝



いつもお借りしている会館が使えないため、年に一度の野外礼拝をささげました。



聖書

コリント人への第一の手紙第1章18節

箴言第10章12節

ヘブル人への手紙第2章9節




崔牧師メッセージ


「いのちの道、イエス様の道について考えてみましょう。


私達は今、イエス様が示してくださった『私に従いなさい』というみことばに聞き従っています。


イエス様は


『私は道であり、真理であり、命である。』
〈ヨハネ14:6〉


とおっしゃいました。


イエス様を通らないと、閉まっている門を強制的にこじ開ける様なものです。


イエス様について行く道は簡単ではありません。


福音を守るために命をかけながらでも従っているのでしょうか。


主日礼拝を守ることも簡単ではありません。


仕事をしている人は日曜日にゆっくり休んだり、やる事もたくさんあるでしょう。


主の日を記念する事は簡単ではありません。


イエス様が示してくださった道は、


1.苦難の道

2.十字架の道

3.死に至る道


です。


イエス様は悪魔をほろぼすために来られました。


簡単な道を歩いてはいません。


信仰に立つと妨害と分かりますが、信仰に立っていないとわかりません。


光の中にいると闇が見えるのですが、闇の中にいると、闇は見えないのです。


私達は信仰があるから、苦難の道を喜んで歩いているのではないですか。


でも、喜びがあるとわかっていながら、時々苦しくなる時もありますね。人間ですから。


悪魔は色々な手で私達の信仰を邪魔するのです。


信仰がある私達は打ち勝つことができるのですが、信仰がない人や子供たちは妨害を受けてしまいます。


簡単ではありませんが、その中で戦いながら、子供、孫、両親…1人の霊魂でも導きたい。


私がいのちの道をわかっているから、思いが違うし、行動が違います。


十字架の道は死に至る道ですが、そこに神の愛が現れます。


イエス様が十字架を背負ってくれた事により、私達の罪はイエス様にいきました。


それでわたしも両親の救いのために、『ここで死ぬ』と覚悟したのです。


死の道を選んだ時、私の家族に、たった2年で救いをくださいました。


イエス様が歩まれたいのちの道、十字架の道、死の道を私達も選んでここにいます。


その道は簡単な道ではありません。


けれど、苦難と共にくださるのは栄光です。


十字架と共にくださるのはイエス様の全き愛です。


全き愛は恐れがありません。


死ぬにしても生きるにしても、私は主のものです。


『死んでも生きる。生きてても死なない。』


体は死んでも、霊は永遠に生きます。


世の中に辛い事はたくさんありますが、イエス様は栄光、喜び、平安をくださるのです。


問題があっても、ゆだねる方がいらっしゃる。


イエス様の道は素晴らしい道です。


どんな事にも耐えられます。


イエス様が共におられるから。


イエス様がいる。兄弟姉妹がいる。


それだけで、感謝です。


讃美ができる。祈りができる。感謝です。


イエス様と共に苦難の道を歩む事が喜びです。


しかし、イエス様を信じていても、何もしなかったら何も起こりません。


従う者、仕える者、イエスの道を従順する人に起こります。


信じていても、何もしなかったら、救いはあるけど、何も起こらないのです。


教会の中で何ができるか。


自分が受けたイエス様の愛を捧げる。心を捧げる。


皆さんの心をイエス様は求めているのです。


喜んで捧げる心を、イエス様は求めているのです。


信仰は無理やりするものではなく、自ら喜んで捧げるものです。


イエス様はどんな時でも喜んでいます。



目の前に十字架があっても、ムチがあっても、父の愛に感動しています。


私達はイエス様の喜びを主に捧げましょう。


イエス様がくださる、本当の平安を捧げましょう。



証しが大事です。


この肉体は、いつか朽ち、土に戻ります。


しかし、イエス様の御名がある霊は永遠に生きる。よみがえりがあります。


だから、どんな苦難でも喜んで受け取りましょう。


主の道をこれからも喜んで歩んで行きましょう。


教会の中でもっと手を取り合い、低くなって、頭を下げて、自分からつかえていく人になりましょう。


必ずイエス様が素晴らしいみわざを現してくださいます。」



アーメンキラキラ



メッセージ要約   M.N