2018年5月6日「イエスの思い考え」

2018年5月6日主日礼拝



聖書


ローマ人への手紙第8章18節

「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光にくらべると、言うに足りない。」



崔牧師メッセージ


「 聖書の学びがただ知識的になるのでは意味がありません。


信仰は生きています。


だから、先週も言いましたが、信仰の行いは生きているはずです。


もし、会社の社長さんだとしたら、どういう部下を可愛いと思いますか?


どういう人を使い易いですか?


皆さんもイエス様に可愛がられたいと言う思いがあるのではないでしょうか。


イエス様の手足となるには、肉体は疲れます。


イエス様の手足になるのは、どういう手足でしょうか。


私が日本に来たばかりの頃、ホームレスの方と出会い、交わった時はその人が臭くても汚くても気にならなかったです。


でも最近、汚いところを触りたくない、と思っている自分がいました。


私達の信仰は、何かの形にとらわれ踏むべきところを選別しているところがあります。


仕えるためには手も汚れます。


自分があまりにも変わってしまったと、悔い改めました。


もちろん、皆足りないところもありますが、用いられる人は準備している人ではないかと思います。


これは、心、思い、考えによるのです。


それと、イエス様と共に苦難を受けようとする信仰がある人です。



信仰者の歩みの中で、祈りが叶えられたことは証しとなりますが、


その問題が解決される前は相当苦しいですね。


皆さんもそれぞれ苦しい時があったと思います。


この苦しみは、苦しんだ人でなければ分かりません。


その時、信仰によって物事を見る。


見方を変える。


パウロ先生がローマの教会に送ったこのみことばは、そういうものです。


本当にイエス様の栄光を受けている。


それが繰り返され御国まで行くのです。


これから、47都道府県に、また世界に宣教する時に、様々な人と出会います。


だから、鍛えられないといけません。


『合わないな』などと人に対して思う人は、イエス様から用いられない。


思い考え、心が、イエス様のものとならないといけないのです。


イエス様と共に受け取る苦難は、自分の心を変えないとイエス様が働かないのです。


そうしないと、従順できない。


そういう器にならないと、頭だけの人(知識的)になります。


聖なる器になる時に、イエス様が用いてくださるのです。


皆さんも、これからひとりひとりが用いられるようにと祈っていると思います。


目、耳、口がイエス様の様な目線に変わり、喜びに満ち溢れた時に、バランスの良い信仰者になるのではないでしょうか。


自分の信仰の姿を、変えるべきところは変えた方が良いです。


準備する器になりましょう。


そういう時に、主が整えてくださり、


用いてくださるのです。」



アーメン!



メッセージ要約   M.N