2018年4月15日「父のふところ」

2018年4月15日主日礼拝


聖書

ヨハネによる福音書第1章18節

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」



崔牧師メッセージ

「旧約聖書には、モーセ、アブラハム、エリヤなどが『神を見た』と書いてあるのに、


ここでは『神を見たものは1人もいない』と書いてあります。


どういう事でしょうか。


私たちは、肉眼ではなく、神からつかわされたイエスキリストを信じる信仰により、


また、その方が送ってくださった聖霊の力により神と出会いました。


父の中におられる、ひとり子なるイエスだけが父を見ました。


では、旧約でアブラハムが見たのは?


神からつかわされた天使を通して神を見たのです。


直接、神が姿を見せてくださることはありません。


キリストを通して、神の栄光、光、平安、命を見せてくださいます。


『このことばに命があった。そしてこの命は人のひかりであった』〈ヨハネ1:4〉

『そしてことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』〈ヨハネ1:14〉



キリストを通して、神を知る。


神と会ったという事は、イエスと会ったという事です。


イエスキリストを通して、神の存在がわかります。


神からつかわされた、イエスキリストを知ることが私たちのするべき事です。


イエス様こそがまことの光です。光の中に命があったからイエス様に、出会い、救いを得て、病が癒された。


様々なことを通して神と出会うようにしてくださり、証ししてくださる聖霊をくださる。


これは自分が得た信仰ではなく、父からつかわされたイエス様による信仰です。


父のふところは本当の安息、平安、安らぎがあるところです。


父のふところにいたキリストのへりくだり、柔和と謙遜が、キリストを通して私達に与えられました。


ユダヤ人達はキリストを受け入れません。


旧約のアブラハムにあらわれた神も同じなのに、キリストを受け入れないから一致しない。


今はキリストを通して、私達に神をあらわしてくださったのです。


神の中には、父、子、聖霊がいます。


三位で、3人のようであり、人格と役割が分けられていますが、その方はひとりです。


神の存在をあらわしてくださるために、まことの光として、イエスキリストがあらわれました。


だから、『あなたの柔和と謙遜、光が私の中にも満ち溢れるように』と祈るべきです。


自分がイエス様からしっかりいただいて、父のふところにあるまことの平安がある。


その方の光であふれているなら、イエス様の赦しもあるから、自分が赦されたようにとなり人も赦して愛するべきなのです。


父から流れた水が、私の中で流れている。


父のふところにおられるキリストがおられるから、まことの光が私の中にあるのです。


ひとりひとり器があります。


でも、同じ御霊が注がれています。


文句を言うのは自分や家族に言っているのと同じです。


父のふところにおられたキリストが私の中にもおられるから、


となり人を愛するのは自分を愛するのと同じです。


器が違う。それを認め合う事をイエス様は喜んでくださいます。


これは父のふところにいらっしゃるイエス様のみ旨です。


世界、日本にある他の教会を認め合う時、この教会に救われるべき魂を送ってくださいます。


教会にはまことの主の光があります。



イエス様は父なる神をあらわしてくださった。



その方は今はみ座にいらっしゃいます。



イエス様がなさった事を教会にくださった。



皆さんの役割は大切です。



イエス様の全てのものが入っているのです。


皆、ひとりひとりを選んでくださったのは、全知全能なるイエス様です。


それぞれ器はあります。


自分のペース、スタイルで歩んで行けばいい。


だから、教会は愛し合うところなのです。」




アーメンキラキラ



メッセージ要約  M.N