2018年2月25日主日礼拝
聖書
ヨハネによる福音書第17章6節〜19節、26節
崔牧師メッセージ
「今、世に宗派は沢山ありますが
わたし達は誰を信じているのでしょうか。
皆、『神、神』と呼んでいます。
皆、神を求めていますが、問題は神に行く道に人が立っていることです。
イエス様は『私は天の父をあかしするために来た』とおっしゃっています。
聖書は神について書いてある本です。
イエスはアブラハムよりも先にいて、永遠前よりいました。〈ヨハネによる福音書8:56〜58〉
イエスキリストは父をあかしするために来たのです。
しかし、今イエスを語らないで、自分自身が父をあかしするために来たといっている人がいるのです。
そして、父がエホバだと言っている。
2000年間聖書を解釈しながら、人は色々言います。
わたし達が讃美してあがめるのは誰でしょうか。
エホバの名が父であるのなら、イエスキリストは来ませんでした。
エホバの名を呼び求めて、救われるのでしょうか。
もしそうであれば、旧約と新約が一致しません。
『エホバの名によって、バプテスマを施せ』と聖書に書いていますか?
イエスは旧約を成就して、神の御子としてこの世に来られ、父の名を知らせてくれました。
6節『私は、あなたが世から選んでわたしに賜った人々に、み名をあらわしました。』
11節『わたしに賜った御名によって彼らを守ってください。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。』
イエスキリストは油注がれて、父より遣わされた方です。勝手に来たのではありません。
マリアに御使が現れた時にどうして『エホバと名付けなさい。』と言わなかったのでしょうか。
エホバは御子が来る前に、天使達に与えられた神の名前です。
エホバは僕の霊であり、信じる者は神の子にはなれない。
わたし達の信仰は父が御子に賜ったイエスの御名によるのです。
父、子、聖霊は父の名によってひとつ。
父の名を持ってこられた方こそがキリストです。
父と子がひとつであるように、イエスを信じているわたしたちも、イエスとひとつです。
天にあるもの地にあるものすべてのものがイエスキリストにひれふしました。
イエスが持ってこられたのは父の名なのです。
聖書ではあらゆる箇所でイエスの御名を語っています。
わたしたちが御子に従うことは、父に従うことなのです。
父をあらわしてくださるために御子がこられました。
必ず父は御子の中におられます。
イエス様のことばも、父が語っています。
だから、私達の中にイエス様がおられる時に父があらわれるのです。
それなのに、イエスを除外して父(神)を語っている人がいる。
イエス様がいない。
信仰は主がわたしの中におられることです。
主はイエスです。
私達を通してイエス様をあかしする事を、聖霊様も喜びます。
直接飛び越えて父ではなく、イエスを通らなければ父のところに行くことはできません。
高ぶると、自分の事を神から遣わされた預言者だと思うのです。イエスはどこに行ったのでしょうか。
御子に与えられた名が父の名です。
父、子、聖霊はイエスの名でひとつです。
イエスの御名を持っている者は、いのちがあるし、天国がある。
天国は私達の中にあり、永遠のいのちがあるのです。
イエスの御名があるから、私達は神の子なのです。」
アーメン

メッセージ要約 M.N

