2017年10月8日主日礼拝
2017年10月8日の主日礼拝は、先週に引き続いて、ネヴィウス弟子宣教教会のクォン宣教師がメッセージを語ってくださいました。
聖書
ルカによる福音書第11章1~13節
『また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。』
マルコによる福音書10章46~52節
『それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。』
クォン宣教師メッセージ
「イエス様が2000年前に誕生され、この地で生きられたことは実際の歴史的事実です。
そして、十字架で死なれて、よみがえられたことも実際に歴史上起こったことです。
イエス様がお生まれになったことと、なされた働き、それから十字架の死と復活は、無理に信じようとする必要がないことです。
『歴史』は、信じようとする事柄ではありません。
実際に起こったことは無理に信じようとするのではなく、ああそうなんだと認めるだけです。
ただただ私たちが信じるべきなのは、『イエス様が神の御子であること』だけです。
イエス様は 3年半の公生涯の中で、人間にはできない働きをされました。
イエス様がなされた働きを見て、ああイエス様がメシヤなのかと、信じるのです。
イエス様がなされたことを信じるのではなく、なされたことを見て、イエス様が神の御子であることを信じることが信仰であり、救いの始まりです。
私たちの信仰の核心は、『イエスは神の御子だ』ということです。
神の御子であることを、復活によってはっきりと証明されたイエス様が、『聖霊』について語られます。
聖霊は、非物質であり、非形状です。
人間の肉によって、聖霊を感じることはできません。
聖霊は霊だけが感知することができますが、人間の霊はアダムの罪によって死んでしまったので、聖霊を感じることも、受け入れることもできません。
イエス様を神の御子として信じる時に、死んでいた霊がよみがえります。
罪によって分離されていた神様と私たち人間の関係を、イエス様が回復させてくださいました。
よみがえられたイエス様は、私たちに聖霊を受けるように命じられました。
それなのに、今日も教会に通いながらも、聖霊を受けていない人がたくさんいます。
聖霊を受けた人と受けなかった人とは、明らかに違います。
信じることと、聖霊を受けることは違います。
聖霊は切に求めなければいけません。
聖霊は求める者に与えられ、探す者に見いだされ、切にたたく者に開かれます。
悪い人も自分の子には良いものを与えるのに、ましてや悪いところが何一つない、もっとも良いお方、父なる神が私たちに聖霊をくださらないはずがありません。
ユダヤ人は、日が暮れると他人の家を訪問することはありません。
ですが、そこにパンを貸してくださいと、切に願う者がやって来たお話があります。
友だからというのではあげないけれど、しきりに願うからあげるのだと、言っています。
罪人として、永遠にほろぼされなければならない存在が人間です。
そんな私たちがどのように聖霊を求めることができるでしょうか?
他の人には分からなくても、自分だけは、自分がいかに罪深いか知っています。
ですが、それでも求めるべきです。
私自身の霊魂が生きるか死ぬかの問題です。
パンをくれる友とは、イエス様です。
訪ねてきた者は、切に祈り求める者です。
祈りは、友を起こしてパンを求める者のように、みえを捨てて祈るべきです。
聖霊をくださることは、イエス様ご自身が約束されたことですから、必ず守られます。
皆さんは聖書の中で、イエス様以外でだれを一番尊敬しますか?
使徒たちももちろんすばらしいですが、私は、エリコに住んでいたバルテマイをもっとも尊敬しています。
彼はこじきであり、生まれながらの盲人でした。
その当時は、生まれた時から病気を持って生まれた人は、どんなにひどい罪人であって、お腹の中から呪いを受けたのかと思われて、人間としての待遇を受けることができませんでした。
だれもバルテマイをイエス様の方に案内してあげる人もいなくて、バルテマイは盲人だから、自分でイエス様を探し回ることができませんでした。
そんなバルテマイに、イエス様にお目にかかる唯一の機会がやってきました。
見えなくても、道行く人の話し声を聞きながら、イエス様が、弟子たちと共に通っていかれるという言葉を聞くやいなや、彼は叫び始めました。
『ダビデの子イエスよ』と叫びました。
これは、イエス様を『メシヤ』として呼び求めたことです。
イエス様の弟子たちも悟ることができなかったことを、バルテマイはイエス様がメシヤだということを悟りました。
周りにいた人に責められても、イエス様に叫び求めることを止めませんでした。
イエス様は、バルテマイがあきらめないことを確認されて、バルテマイを呼ばれました。
バルテマイは、イエス様が自分を呼ばれたということは、自分の問題が解決されたと確信したので、いのちと同じような上着も捨てました。
メシヤと会えば、目が見えるようになることを100パーセント確信したからです。
バルテマイは癒しを受け、イエス様に従っていきました。
祈りは、バルテマイのような姿勢であるべきです。
『バルテマイは聖書の中の人』ではなく、私自身です。
求める者に聖霊をくださると約束されたので、私にも約束を守ってくださいと、バルテマイのように切に求めましょう。
皆さん、これからイエス様のみまえで、自尊心もすべて捨てて、謙遜に切に祈り求めましょう!!」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M
