2017年9月10日「心を見る」



2017年9月10日の主日礼拝

  
聖書
コロサイ人への手紙第3章12~25節、ルカによる福音書第5章12~26節、7章36~50節、8章43~48節、15章11~32節、18章35~43節、19章1~10節、23章39~43節、24章36~43節




コロサイ人への手紙第3章12~25節
『だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。』



ルカによる福音書第5章12~26節
『イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病にかかった人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。』



ルカによる福音書第8章43~48節
『ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。』




崔牧師メッセージ




「先週は、ルカによる福音書を読みながら、今までなかった視点から深く考えさせられることがあり、悔い改めに導かれました。



コロサイ人への手紙の箇所を読んでも、先ほど司会の I 執事が夫婦の関係について語られましたが、私自身も夫であり、子でもあり、また父でもあります。



自分に与えられた立場で、心からイエス様が願っておられることに従おうとしているのかと考えたら、申し訳なくなりました。



イエス様の真の弟子になろうと言いながら、イエス様とは心も思いも、行動も全然違う自分自身がいます。



ルカによる福音書を読むと、たくさんの病をかかえた人がイエス様のみもとに癒しを求めてきます。



イエス様のそばにいた弟子やまわりにいた人たちは、そのような病人たちがイエス様のみもとにくることを、良く思っていませんでした。



私がもし、弟子の一人としてイエス様と一緒にいたとしたら、『私が今ここにいてイエス様から学んでいるのに』『あとにしてくれたらいいのに』『私たちの邪魔をする者だ』と思って、不満を言ったかもしれません。



重い皮膚病の人も、屋根をはいで床をつりおろされた中風の人も、長血の女も、なかなか人が近寄りにくい人たちでした。



私だったら、イエス様のように人を見た目で判断せず、求めてくる者だれをも分け隔てることなく、受け入れることができるかなと、考えさせられました。



気持ち悪いとか、汚いとか思わずに重い皮膚病の人に触れることは、よほど満たされないと難しいなとも感じました。



イエス様は、人をおもてで見られず、心の中心を見ておられます。



そして、癒しを救いを求める者に応えてくださいます。



私はイエス様とは正反対だなと思いました。



これで何が、『イエス様の真の弟子か』と、ずいぶんと悔い改めました。



他の箇所を読んでも同じです。



私だったら、放蕩息子より真面目に働いた長男が好きだし、十字架につけられるような極悪人とは人間的にかかわりたくないし、実際に見ても疑ってばかりで、なかなか信じようとしない弟子たちにいらだったでしょう。



これから、この教会にもさまざまな人たちをイエス様が送ってくださると思いますが、そのためにはイエス様のような心で、どんな姿であっても求めてくる人を受け入れる器にならないといけません。



私たちの中に、まだどこか人をおもてで見て、差別する思いがあるかもしれません。



私自身も以前は4つの病気があって、希望もなかった時にイエス様から癒され、救われたにもかかわらず、どんな病人も受け入れるイエス様のような心がまだまだ足りません。



自分が病気になってみないと、病人の心はなかなか分かりません。



また、人それぞれ十字架が違いますが、自分が同じ目に合わないとなかなかその人の痛みは分かりません。



私たちは、自分自身がイエス様からあわれまれて、癒されて、助けられてきたことへの変わらない感謝をもって、心の中心がもっともっとイエス様に近付けるようにと願って、これから求めて歩んでいけますように、イエスの御名によってお祈りいたします✨」




アーメン✨


メッセージ要約  Satoko.M