2017年8月13日「イエス様の品性」


2017年8月13日主日礼拝


聖書
イザヤ書第53章1~7節




イザヤ書第53章1~7節
『だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。』




崔牧師メッセージ




「今日は、皆さんとイエス様の品性について、考えてみたいと思います。



イザヤ書で語っている『彼』とは、だれのことでしょうか?



旧約の預言は、すべてイエス様のことを語っています。



イエス様は父のみこころに従って、私たちの病を負い、悲しみをにない、罪のあがないのために、この地につかわされてこられました。



30年間、ヨセフとマリヤの息子として、大工の仕事を手伝い、時がきて、ヨルダン川でバプテスマを受けられて、たった3年半の公生涯の中で、神の御子としての働きをまっとうされました。



今まで先祖の神を拝んできたユダヤ人からは、『けしからん存在』として、限りない迫害を受けました。



イエス様は、人間的に見た時には、立派に見えることもなく、尊敬されることもなく、美しくもなく、豊かでもありませんでした。



水がたっぷりで養分が豊かな土ではなく、かわいた土から出た若木のようでした。



見方によったら、温室育ちではなく、厳しい環境の中で育った、ということもあります。



本当は万王の王である方が、この地では普通の庶民のように、特に何も持たない者のようにされました。



今で言えば、かっこわるいと、形容される感じでした。



私たちは、どうでしょうか?



イエス様に習う者になろうと言いながら、どこか目に見える姿や威厳、美しさ、豊かさを求める思いはないでしょうか?



M・I 兄弟のあかしにとても感動しましたが、本当は、身のまわりの小さなことも、すべてイエス様から与えられたものなのに、いつのまにかそれが当たり前になって、感謝が足りない私たちがいるかもしれません。



健康な人に健康の大切さをいくら語っても伝わりにくいのは、当たり前だと思っているからです。



わたしたちはすでに充分すぎるくらい、イエス様から与えられた者たちです。



イエス様の恵みに対して、
私たちの器があまりにも小さいから、悟りきれていないだけです。



後半は、イエス様がどんなにまわりから誤解され、打ちたたかれても、弁明されることもなく、黙って十字架を負われたことを、言っています。



イエス様は公生涯の間、教えるべきことはすべて教えられ、御国の働きをまっとうされたあとは、何も語られることもなく、父のみこころどおりに従われました。



私自身、救いのことが分かった時からは何がなんでも父と母に、また、この間この教会に来た上の姉にイエス様のことを語りました。



今は、姉はカトリックの教会に行っていますが、当時は姉婿と共に、一番迫害した人でした。



肉の力だったら私も負けませんが(笑)、イエス様のことで受ける迫害は黙って受けるべきだと思い、受けました。



霊的な戦いは大変でしたが、それ以上に私の中には喜びがありました。



イエス様が祈りに答えてくださいました。



救いは、イエス様が働いてくださらなければできないことです。



私たちには何もできません。



イエス様がどのように歩まれ、私たちのためにになってくださったのか、そのことをいつも思い、できる限りイエス様の品性に近付くことを願いながら、悔い改めながら、一歩一歩歩んでいく私たちとなりますように、祝福してお祈りいたします。」




アーメン✨


メッセージ要約  Satoko.M