2017年7月2日主日礼拝
聖書
ルカによる福音書第19章28~38節
ルカによる福音書第19章28~38節
『イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
「主の御名によってきたる王に、
祝福あれ。
天には平和、
いと高きところには栄光あれ」。』
崔牧師メッセージ
「今日は、皆さんと『動物』について考えてみたいと思います。
ここの箇所は何度も読んでいながら、今まであまり深く意味を考えたことがありませんでしたが、先日、ある牧師と共に、深く考える機会を与えられました。
イエス様をお乗せする、『子ろば』について考えてみましょう。
なぜ、『子ろば』なのでしょうか?
もっと、人を乗せた経験がある、大人のろばたくさんもいたでしょう。
自分がもし、この子ろばの立場だったらどうしたかと考えてみましょう。
子ろばは人を乗せた経験がなくて、分からないから、あれこれ言うこともありません。
乗せている人が言われるままに従います。
『ここに乗ったら重いから、もう少しこちらに乗ってください』、あるいは『もう疲れたからやめた』と不平不満を言うのだったら、乗られているイエス様にとってこの子ろばは、用いにくい器になります。
経験がある大人のろばなら、自分の思いがたくさんあって、なかなか思ったとおりに動いてくれないかもしれません。
何も知らない、純朴で純粋な子ろばだったから、イエス様がこの子ろばを選ばれたのでしょう。
子ろばは他にもたくさんいたはずですが、この子ろばにもし、人間のようにはっきりとした人格があるとすれば、お父さんろば、お母さんろばの言うことをよく聞いて、反発することもない、そういうタイプだったでしょう。
果たして、私たちはイエス様が安心して乗ってくださるような『子ろば』なのでしょうか?
『疲れた、もう歩きたくない』と言って、途中で座り込んだら、イエス様は落ちてしまいます。
あるいは、服を上に乗せてもらったり、地面に服を敷いて上を歩かせてもらえたことを勘違いして、自分が栄光を受けてると思い、調子に乗って、片足を上げたりしたら、イエス様は後ろに落ちてしまいます。
途中で歩くのをやめて止まるならば、イエス様は子ろばから下りて、歩かなければいけなくなります。
子ろばは、分かりやすいたとえです。
私たちは人格もあり、はっきりと自分の思い、考えもあり、イエス様に言葉で申し上げることもできる人間です。
時には、十字架が重たい時もあります。
疲れる時もあります。
分かっていながら不従順する時もあります。
このことは、肩に力を入れなさいという意味ではありません。
足りない時は、『イエス様、申し訳ありません、助けてください、もっとこのように従いたいです』と求めながら、ゆっくりでもやめることなく、歩いていくことではないでしょうか?
私たちに何ができるでしょうか?
言葉では、『天と地はイエス様によってつくられた』と言いながら、イエス様のみこころのままになっていない、ゆだねきれないところが多い私たちです。
この子ろばのように私自身もなりたいです。
皆さんも同じだと思います。
心から、私たちひとりびとりがこの子ろばのような信仰者になることを願って、祝福して、お祈りいたします✨」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M

