2017年6月25日主日礼拝
聖書
ローマ人への手紙第5章1節〜11節
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」
ローマ人への手紙 5:1-11 JA1955
http://bible.com/81/rom.5.1-11.ja1955
コリント人への第一の手紙第16章13節
『目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。』
崔牧師メッセージ
「私は、昨日ずいぶん悔い改めました。
バプテスマの時のように風呂の中に頭まで浸り、『私は死にました。私は死にました』と、何度も何度も繰り返し申し上げました。
そうしたら、『柔和で、心のへりくだった者になりなさい』というイエス様の御声が聞こえてきました。
バプテスマの時に水の中に葬ったはずの昔の自分が、いつの間にか出てきます。
自分の思い、考えが出てきます。
自分の思いがあるから、あの人がこうだどうだと、判断して、さばいてしまいます。
イエス様は、『自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』と、言われました。
自分を捨てなければ、イエス様が働かれにくいです。
自分がある時には、患難を喜ぶことはできません。
自分を捨てた時に、患難を喜ぶことができます。
まわりからののしられて、迫害を受けて、うちたたかれても、喜ベます。
『目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。』という御言があります。
このことは、肩に力を入れて、私が頑張るから、という意味ではありません。
患難を喜ぶことは、信仰の力です。
聖霊に満たされる時に、人間的に喜べないことも喜ぶことができます。
人間はどこまでいっても、『成っている人』なんていません。
呼ばれる時まで、毎日が悔い改めです。
私たちはひとときたりとも、イエス様のゆるしがなければ生きられません。
自分自身の思い、考え、悩み、願い、すべてイエス様にゆだねて、御言に従い、信仰によって力強く、たくましく、男らしく歩む私たちとなりますように、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M
