2017年5月28日主日礼拝
先週の金曜日から、韓国のネヴィウス弟子宣教教会のイム牧師先生と、沖縄聖楽教会の大城牧師先生が、いのちの道キリスト教会に来られていました。
金曜日、土曜日、主日と3日間に渡り、私たちの聖書を知る知識が深まるようにと、イム牧師が柔和な中にも力強さを込めて、講義をされました。
2017年5月28日の主日礼拝の中で、大城牧師が信仰のあかしをしてくださり、イム牧師がメッセージを語ってくださいました。
聖書
エペソ人への手紙第1章3~6節
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。 』
ヨハネの黙示録第4章2~11節
『すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者にして主なる神。
昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
「われらの主なる神よ、
あなたこそは、
栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
あなたは万物を造られました。
御旨によって、万物は存在し、
また造られたのであります」。』
イム牧師メッセージ
「私たちが今、信仰に導かれていることも、すべて永遠前からの神様の御計画の中にあってのことです。
神様にはひとつの欠けたるところがなく、完全で正確で正直な方です。
天使長だったルシエルが高慢になって知恵を汚し、堕落してサタンとなって地に落とされて、今度は人間を堕落させようと惑わしました。
悪魔にだまされて罪を犯さないようにと、神に仕えることを教えるために、神様がモーセをとおして、人間に律法を与えてくださいました。
律法には、365の『してはいけないこと』と、248の『守るべきこと』があります。
それでも、人間は罪から逃れることができませんでした。
どうしようもない人間の罪のために、神は御子を差し出して、御子によって救われるようにしてくださいました。
このことがどんなに恵みで、かえがたいことでしょうか!
神はお一人ですが、本質である父、本体である御子、本霊である聖霊、三位それぞれに人格があります。
御子には御子の人格があり、御心がおありでしたが、御子の一番の御心は父の御心に従われることでした。
ご自分を低くされ、人間の形を取られて、体を持ってこられました。
父の御心を尊重され、仕方なく十字架を背負われ、仕方なく天にのぼられ、仕方なく御座につかれました。
私たちが、御子の血のあがないによる恵みによって救われた者として、御子にならう者となることを、神は願っておられるのではないでしょうか?
今、自分の身に起こっていることもすべて、壮大なる神の意図の中にあってのことですから、私たちはあれこれ悩んだり、肩に力を入れずにイエス様にすべて申し上げていったらいいのではないでしょうか?
正確に申し上げていったら、正確に導いてくださり、答えをくださる方です。
聖書を、旧約から深く読んだら分かりますが、この天と地でひとつも偶然はありません。
すべてが科学的で、理論的にも説明が可能であり、計算してみても、ひとつの狂いもありません。
私たちは、文明、文化が発展していくのを見て、どうなっていくんだろうと恐れてはいけません。
文明、文化も人間がつくりだしたと思いがちですが、その人間も神の披造物です。
すべては神によって造られました。
それが分からないと文明、文化の前で、目に見える形に惑わされてしまい、自分自身をさらけ出すのを恐れるようになります。
私はイエス様のみまえで、自分自身を隠そうと思ったことはまったくありません。
イエス様は人間の意志を尊重され、乗り越えることはありませんから、隠そうとする人にむりやり働かれることはありません。
そうしたら、結局イエス様が働かれるのを、自分自身が妨害することになります。
あまりにももったいないことです。
黙示録4章6節の『水晶に似たガラスの海』とは、御座の前では、私たちのすべてが裸になることであり、『七つのともし火』とは、さばき、審判を意味しています。
たとえどんなに私たちが冠を受けるような働きをしたとしても、イエス様の助けがなければ何もできなかったことを、御座の前で知ることになります。
罪だらけだった自分の姿を見ることになり、自分には何もなかった、イエス様がよらなければ何も持たない者であったことを悟り、冠を投げ出して、イエス様に栄光を帰すことになります。
最後の時に自分の真の姿を知り、御座の前にひざまずき、ただただ悔い改めと感謝しかありません。
父、子、聖霊、三位の中で、父だけが祈りを受けられる方です。
御子は御座で私たちのためにとりなしてくださり、聖霊は聖徒の中で切なるうめきをもって、神の御旨にかなうとりなしをしてくださっています。
だから、自分がどうしたらいいああしたらいいと肩に力を入れるのではなく、万物を造られ、御心のままに導いてくださるイエス様に祈りと願いとを申し上げ、喜びと感謝とに満ちあふれて、使命をもって歩んでいく私たちとなりますようにお祈りいたします。
金曜日からこの主日まで、私のメッセージを忍耐して聞いてくださり、感謝いたします✨」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M



