2017年5月7日「信仰の歩み」


2017年5月7日主日礼拝


2017年5月7日の主日礼拝は、牧師先生が韓国に行かれていてご不在のため、I 宣教師がメッセージを語ってくださいました。


聖書の御言を何ヵ所か皆さんと共に読みながら、とても共感しやすく、感動的なメッセージでした。



ヨハネによる福音書第4章24節
『神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。』


ヨハネによる福音書第17章3節
『永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。』


マタイによる福音書第7
章1~5節
『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。』


マルコによる福音書第4章
39節
『イエスは起き上がって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。』


ヨハネによる福音書第1章5節
『光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』


詩篇第19篇14節
『わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、
あなたの前に喜ばれますように。』



I 宣教師メッセージ



「つたない私ですが、イエス様の導きによってメッセージを語らせていただくことになりました。


何を語ろうかとイエス様にうかがいましたが、やはり、私自身が今までイエス様にあってどのように歩ませていただいたかを、皆さんの前にお話するのがふさわしいと思いました。


私がはじめてイエス様と出会ったのは、10年前のことでした。


罪が何かも分からなかった私は最初、『この中で罪のない人は手をあげてください』と崔先生から言われた時に、『はい!』と手をあげたような愚かな者でした。


その日は家に帰ってもずっと、『罪とは何か?』ということがひっかかって、風呂場でシャワーを浴びていたら、『今までイエス様を知らなかったことが罪だ』という感動がきて、私はわけが分からないままに、『イエス様、私は今までイエス様を知りませんでした。このような私をおゆるしください』と涙がとどめなく出てきて、悔い改めに導かれました。


そうしたら、何か分からないけど、舌がもつれて自分でも分からない言葉を語っていました。


その時は聖霊様とか分からなかったのですが、あとから確かめたら、聖霊様が臨まれたあかしでした。


それならばバプテスマを受けて、信仰告白してクリスチャンになりましょうと言われて、秋も深まる頃に、海でバプテスマを受けることになりました。


約束の日、待ってもなかなか先生方が来られないし、私は見捨てられたのかなという思いが渦巻いたり、天気も悪くなるし大丈夫かなとか、さまざまな人間的な思いがよぎりました。


崔先生が来られて、海に入っても水は冷たいし、こんな時に崔先生に申し訳ないと思っていたところ、バプテスマを受ける瞬間、どこからともなくあたたかい海水が流れてきて、私たちを満たしてくれました。


マルコによる福音書第4章39節で、イエス様が命じられたら波も風も静かになったように、その瞬間も同じ御言が働いてくださって、私を祝福してくださっているんだなと、感動しました。


その頃の私は、聖書を覚えなければいけないものだと思っていて、『私は年だから覚えられません』と申し上げたこともありましたが、そうではなく、御言は霊魂に入って恵みを受け、生きて働かれるものだと、あとから分かりました。


分からないながらなぜか、今から思えば聖霊様が働いてくださったのですが、ふと、ヨハネによる福音書第4章24節、17章3節の御言が私の目に飛び込んできました。


そして、ピンクのマーカーで御言の箇所を引きました。


とにかくうれしくてうれしくて、寝る時も聖書を抱きしめて寝ました。


東京のセミナーに行くことも、『先生方と行けるなんていいな』くらいにしか思わなかったその頃の私でした。


まだまだ御言もよく分からなかった私は、セミナーに行った時に、『聞いたことを隣の人に語りなさい』と言われても分からないし、また人の惑わしもあって、はじめて、霊に縛られるという体験をしました。


霊が出ていった時にはっきりと、ヨハネによる福音書第1章5節の御言にあるとおり、光と闇があることを、自分の身をもって体験しました。


また以前ソウルに行った時に、ある方のことをどうしてもゆるせなくて、愛があれば、その人のために必要な言葉もかけてあげられたのにできなくて、崔先生から戒められたことがあって、帰りのフェリーの中で悔い改めました。


はじめは悔い改めについてもはっきり分からなくて、『イエス様ごめんなさい』と言葉では申し上げるけど、何だかすっきりしない自分自身がいました。


そうしたら、外の広い深い大きな海を眺めているうちに急に自分がちっぽけに見えて、本当の深い悔い改めに導かれました。


ノンクリスチャンの時は悔い改めが、ゆるしが何か分かりませんでした。


昔まだ信仰がなかった頃、観光で韓国に行っていて、迷惑をかけられた人のことをさばいてしまい、あとからその人が謝りに来ても受け入れないで、かかわりを断ち切ってしまったことがありました。


自分は偉い者でも何でもないのに、まるでパリサイ人、律法学者のように、人を自分の量りでさばいていた自分自身がいました。


マタイによる福音書第7章1~5節を読んで、とても突き刺さりました。


今から考えたら、愚かな者でした。


最後に、詩篇第19篇14節を読みましょう。


イエス様に喜ばれる者になりたいですね。


皆さん、どうですか? 一人ずつ聞きましょう。


イエス様から救われ、あわれみを受けた者はそれしかありません。


私が今の苦しい状況の中で、メッセージを語らせていただいたのにも、イエス様の御心があるのでしょう。


私たちはさまざまな試練の中にあっても、いつもイエス様に喜ばれることを思い、希望をもって歩んでいく者となりますように、イエスの御名によってお祈りいたします✨」



アーメン✨


メッセージ要約 Satoko.M