2017年4月16日主日礼拝
2017年4月16日は、私たちの罪のためにイエス様が十字架につけられて、死んでよみがえられたことの感謝と喜びに満ちあふれた、イースター礼拝を捧げました。
聖書
ヨハネによる福音書第20章19~31節
ヨハネによる福音書第20章
26~29節
『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。』
崔牧師メッセージ
「信仰は、まずは自分がイエス様から罪がゆるされて、神の子とされた感謝と喜びに満ちあふれることです。
自分自身が分からなくて、人々に恵みを分け与えることはできません。
聖霊様が臨まれたことによって、私たちははっきりと聖書の御言が成就されたことが分かります。
イエス様が十字架につけられて、墓に葬られたあと、弟子たちはユダヤ人をおそれて、戸に鍵をかけ、閉じこもっていました。
そこによみがえられたイエス様が、霊なるからだをもって壁を通りぬけて、部屋に入ってこられました。
鍵をかけていたのに、どうやって入ってこられたのか、物理的にありえない事態に弟子たちは驚いたでしょう。
その時トマスはいなくて、あとで他の弟子たちから聞いても、イエス様がよみがえられたことが信じられませんでした。
よみがえられたイエス様に最初にお会いしたのが、マグダラのマリヤでした。
このときイエス様はマリヤに、『私に触ってはいけない』と言われました。
そのあと、ヨハネとぺテロがマリヤからイエス様がよみがえられたことを聞きましたが、すぐには信じられませんでした。
それで実際に二人が墓に行って見てみると、石が転がされて、墓の中は空っぽでした。
イエス様の12弟子の一人であり、3年半もの間、イエス様から直接聞いて学びながらも、イエス様をこの目で見て、触ってみなければ決して信じないという、疑い深い性格のトマスがいました。
そんなトマスにイエス様は、『私の手に指を入れ、わきに手をさし入れてみなさい』とおっしゃいました。
トマスは実際にイエス様の手に指を入れ、わきに手をさし入れてみてから、『わが主よ、わが神よ』と言いました。
でも、私たちはイエス様を直接見たことがありません。
イエス様がおっしゃられたとおり、見ないで信じるさいわいな者です。
皆さん、イエス様を信じる信仰に導かれることになると、以前から思っていましたか?
分かってて来られたんですか?
そうじゃありませんね?
時が満ちて、何も分からなかった私たちひとりびとりを、イエス様が呼んでくださいました。
このことがどんなに、人間の考えではありえなくて、すばらしい恵みに満ちたことでしょうか?
イエス様が弟子たちが見てる前で天にのぼられてから約2000年たちましたが、私たちは、その時と変わらない信仰に導かれています。
聖霊によらなけば、ありえないことです。
イエス様は決して、失望させることがないお方です。
人は弱くて、足りなくて、時にはお互いに失望させることもありますが、イエス様は変わられることがなく、必ず祈りの答えをくださるお方です。
今の私たちが見ないで信じていることだけでも、奇跡みたいなことです。
私たちが何かできるから、頭がいいから救われたのでは、決してありません。
イエス様からの一方的な恵みに以外にありません。
そのことを考えただけでも希望に満ちあふれます。
私たちの信仰は毎日が復活です。
ハンドベルの前に突然、聖霊様の感動によって、昨日 I 宣教師の家庭に行った時のご主人のあかしをしました。
長い時間がかかったとしても、イエス様は必ず祈りの答えをくださいます。
私たちの信仰の目的は、この地で名誉を得ることでも、ぜいたくをすることでもなく、よみがえられて御座におられるイエス様を見上げて、永遠の命を得ることです。
これからの生涯、日々日々喜びが変わることなく、信仰に燃えて、永遠の命のため、御国をめざして歩む私たちとなりますようにお祈りいたします✨」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M


