2017年3月26日主日礼拝
聖書
コリント人への第一の手紙第15章20~28節
コリント人への第一の手紙第15章20~22節
『しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 』
崔牧師メッセージ
「私たちは、何ができるからイエス様と出会ったのではありません。
自分の義はひとつもありません。
ただただ恵みによって救われました。
もしかしたらそのことで逆に、キリスト教を軽んじる人もいるかもしれません。
『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには、神の力である』と言っている箇所があります。
ある宗教は分からなくて、修行したら救われるとか何とか言いますが、私たちは何もしなくて、ただただ父なる神様がつかわしてくださった御子イエス・キリストを信じる信仰によって罪がゆるされ、救われました。
救いはどこからの救いでしょうか?
私たち全人類はアダムの中で、『善悪の木の実を食べてはいけない』という戒めに不従順した罪によって、霊的に死んだ者となっていました。
御子イエス・キリストが父なる神様のみまえで人の子として謙遜の限りをつくされ、最後は十字架につけられて、血を流してくださったことによって罪がゆるされ、霊的に生きた者となりました。
血を流さなくても、御子が父なる神のみまえで謙遜をつくされて死ぬことはできましたが、聖書には、
『血を流すことなしに、罪のゆるしはありえない』と書かれています。
また、それで終わりではなく、父なる神様によって、御子イエス・キリストが3日目によみがえられました。
よみがえりがなくては、私たちの信仰はむなしいものです。
御子が私たちの罪のために死なれ、3日目に復活されたことを信じること、その方の御名を信じることが私たちの信仰です。
自分が救われたことが本当に分かるならば、まだイエスの御名が救いであることを知らない隣人に告げ知らせるべきです。
そのことができない自分自身がいるならば、イエス様に申し訳ないです。
救いはどこか遠いところから来るのではありません。
『聖霊が来られるまでは、エルサレムを離れてはいけない』とイエス様が言われたように、まずは自分の一番近く、家庭からです。
500人もの弟子が、イエス様が言われた御言を聞いたはずでしたが、380人は約束を待ちきれずに離れて行き、120人が約束の聖霊を受けました。
聖霊が来られたら、イエス様がよみがえられて、御座に行かれたことがはっきりと分かります。
まだ聖霊が来られてなくても、120人のように失望せずに待ち望みましょう。
イエス様の歩みの中にあっては、何一つ無駄なことはありません。
先週ある兄弟にも言いましたが、足りないことを思うのではなく、はじめの愛の中にとどまり、いつもそのことに感謝しましょう。
私たちは人間的に足りないところを見たら、キリがないです。
そのことはイエス様に悔い改めて、ゆだねて、いつも自分自身がどこから救われたのかという信仰の原点に立ち返って、感謝して、喜んで歩む一週間となりますように、お祈りいたします」
アーメン✨
メッセージ要約 Satoko.M

