2017年2月12日「感謝しなさい」


2017年2月12日の主日礼拝


聖書
コロサイ人への手紙第3章12~17節



コロサイ人への手紙第3章12~17節
『だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。』



崔牧師メッセージ



「私は悔い改めました。


兄弟姉妹たちには、
『感謝しなさい』と教えながら、果たして私自身はどれくらいイエス様に感謝しているのかと。


12節をひとことひとこと読みながら、改めて感謝なことばかりです。


私たちは勝手にイエス様のみもとに来たのではなく、イエス様が選んでくださったから、今、信じる信仰によって導かれています。


イエス様によって罪がゆるされ、愛されていることが、どれくらい恵みでしょうか。


あわれみの心というのは、信仰がない人に対しては、『早くこの人にイエスの御名が与えられてほしい』と願って、その霊魂をかわいそうに思うことであり、信仰者同士では、
『この人が最後まで信仰をまっとうできること』を願って、祝福することです。


『慈愛』は、イエス様の愛によって愛することであり、『謙そん』は、イエス様が父なる神に従順されたように、われわれがイエス様に従順していくことであり、『柔和』は、また謙そんとつながります。


高ぶったら、柔和にはなれません。


『寛容』は、寛大な容赦、イエス様がわれわれをゆるして下さったように、相手をゆるして受け入れることです。


救われたことが分かり、本当に感謝が分かるならば、足りなくても、このようになりたいと願うはずです。


12節は、罪をゆるされた自分自身がどうするべきかについて語られている箇所ですが、13節は、『互いに』と、兄弟姉妹同士の関係について語られています。


兄弟姉妹同士の中でもさまざまなことがありますが、そのような時に、『ゆるし合うこと』について語られています。


すべてイエス様のみこころであり、パウロ先生をとおして語られています。


私は、これらのことを行うことがすでにイエス様の愛だと思っていましたが、更に14節には、
『これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい』と書かれています。


いったい、どれほど『愛』について語られているのか、どれくらいイエス様の愛が深いのかと、感動せずにはいられませんでした。


コリント人への第一の手紙第13章1節から3節では、どれほど強い信仰があっても愛がなければ、いっさいは無益であることについて言っています。


また13節、
『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である』
と、ここもパウロ先生をとおして語られている御言です。


私は今までの歩みの中であまりにもたくさんイエス様から愛されていながら、感謝が足りませんでした。


パウロ先生のように、
『感謝しなさい』と、人に言える資格が私にはありません。


昨日は八幡の町を伝道しながら、ふと後ろを振り返ったら三人の兄弟姉妹たちがおられて、またイエス様に感謝しました。


まずイエス様に感謝しましたが、兄弟姉妹たちにも感謝しました。


日本に来たばかりの時はだれもいなくて、一人で伝道していたことが思い出されました。


日本の牧師先生たちから、
『崔牧師がうらやましい』と言われます。


日本の牧師先生たちのまわりにもなかなか人が集まらないのに、私のもとには共に礼拝を捧げ、賛美し、祈り合う兄弟姉妹たちがおられるからです。


日々の生活の中でも、感謝なことが数え切れないくらいあります。


私たちが見過ごしているだけで、日々の信仰生活の中で、イエス様から助けられていない瞬間がありません。


感謝は、主の日、礼拝の時だけ捧げるものではなく、24時間いつもが感謝を捧げる時です。


これは、献金のことだけを言っているのではなく、祈りによっても、賛美によっても、感謝なことがあったら、その時その場で感謝をあらわしましょうという意味です。


ひとつひとつ主にあって、心をつくして感謝をあらわしていきましょう。


その姿を、家族や隣人が見ています。


私たちは、世の光です。


そうすると、みなさんの信仰がもっと豊かになり、祝福が満ちあふれるでしょう。


私は、皆さんの霊魂を主にあって祝福します。


皆さん、ひとりびとりがイエス様から最高に祝福される信仰者になることを、私は心から願います。


涙ながらに、熱く、力強く語りましたが、最後まで聞いてくださって、『アーメン』してくださって感謝します✨」


アーメン


メッセージ要約   Satoko.M