2017年1月29日主日礼拝
2017年1月29日の主日礼拝は、『これから月に一度、一人ずつ前に出て語るようにしていきましょう』ということで、牧師先生がM兄弟を指名されて、今週はM兄弟があかしと共にメッセージを語られました。
M兄弟が語られたあと、牧師先生がメッセージを語られました。
2017年1月29日の主日礼拝の御言は、マタイによる福音書第5章1~12節、ピリピ人への手紙第3章10,11節、詩篇第37篇23節の箇所です。
マタイによる福音書第5章3節
『こころの貧しい人たちはさいわいである、天国は彼らのものである。』
5章10節
『義のために迫害されてきた人たちはさいわいである、天国は彼らのものである。』
ピリピ人への手紙第3章10,11節
『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 』
詩篇第37篇23節
『人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。』
M兄弟のあかし、メッセージ
「皆さん、おはようございます。
今週はこうして前に立たせていただいていますか、最初に牧師先生から前に立って語るように言われた時は、
『私なんかがいいのかな?』と思ったりしましたが、イエス様が崔先生をとおして言われたことだからと、今日はこうして語らせていただくことになりました。
私がはじめてキリスト教会に導かれてから、12年くらいになります。
その前は、嫌なことかあったらお酒飲んで忘れようとしましたが、飲んでも平安なんてありませんでした。
お酒ばっかり飲んで、ギャンブルばっかりして、人を利用価値があるかないか、そういう目でしか見ない、知性の腐った人間のクズでした。
そんな私を、イエス様が救い出してくださいました。
友達から、『お前は性根が悪いから、寺でも行って修行してこい』と言われたこともありました。
それで、
『自分は根性がないから修行はできないけど、そういえば、 “信じれば救われる“ というのを聞いたことがあるから、キリスト教会に行ってみるか』という思いから、はじめてキリスト教会に足を踏み入れました。
その時は、親孝行をしたいという思いはあってもできなくて、私は特にお母さんが大好きなんですけど、心配ばかりさせて、何一つ親孝行ができなくて苦しんでいました。
その苦しみをキリスト教会に入って、『お母さん』と一言申し上げながら祈っていたら、イエス様が涙を下さり、その時に、
『神様は生きておられるんだ』と実感しました。
その最初の愛の中に、揺れ動くことなく、とどまり続けられたら良かったですが、あっちに行ったりこっちに行ったりと、数え切れないくらい申し訳ないことがありました。
牧師先生や、信仰の先輩方が私の成長を願って、ご指導くださることがありましたが、私はなかなか自分の我が強くて、素直に聞けなかったことも多く、恵みの中にありながらも、ずいぶん回り道をしてきました。
どん底まで陥ったこともありましたが、必ずイエス様がこんな私でも谷底から引き上げてくださいました。
祈りながら慰めを下さったこともありますし、牧師先生や兄弟姉妹方をとおして励まされ、勇気づけられたことも、何十回何百回ありました。
いじけてくじけて大変な時もありましたが、それでも天国に行く道を歩かせていただいているんだというところから外れることがなかったのは、恵みとしか言いようがありません。
御言を皆さんと読みましたが、
『自分の足りないところを分かっている者はさいわいである』という箇所に、私は恵みを受けます。
信仰がなかった時は、お酒飲んでも、これは良くないと思うこともなく、罪が罪であることが分かりませんでした。
まだまだ目に見える形では足りないことだらけですが、神の国に入る望みが与えられているから、這いつくばってでも、イエス様に頼っていくことが、今の私にできることです。
信仰から落ちることがないように、これからも足りなくても、神の御国に入る道を歩いていきたいです。」
牧師メッセージ
「今、M兄弟が語ってくださいましたが、天国に入るための道を自分が歩いていることを、自分自身が知らないといけません。
詩篇第37篇23節、
『人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。』を、一緒に読みましょう。
私は考えます。
果たして、私は主が定められた道を歩いているのか、と。
ひょっとしたら、主の定められた道を歩いているつもりでも、自分の思いで勝手に歩いている時はないのかな、と。
皆さん、ひとりびとりがここに座っていることも、意味があります。
『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ』と、イエス様がおっしゃられました。
イエス様が定めてくださった道を、今私たちは歩いています。
昨日も、八幡の町を伝道しました。
先ほどメッセージを語ったM兄弟も一緒に行きましたが、彼がある服屋のおじいちゃんに、彼自身の今までの歩みの中で、恵みを受けながらも足りないことだらけで牧師先生にも申し訳ないと、涙を流しながら語っていました。
私はそれを見て、彼をハグしてあげました。
足りないから、前はどうだったからではなく、今、主の中にいて導かれていることが、喜びであり、感謝です。
イエス様が歩まれた道、弟子たちだ歩んだ道がどのようであったのか、今のわれわれはとうてい及びませんが、主の喜ばれることを思って、自分勝手な道ではなく、聖霊の導きに従って歩む者となりますように、お祈りいたします✨」
アーメン
メッセージ要約 Satoko.M

