2017年1月22日「命のパン」

2017年1月22日主日礼拝



2017年1月22日の主日礼拝は牧師メッセージの前に、I 執事が司会をされました。

その中で、『以前は自分の物差しで人をはかってしまい、私は正しい、私はきちんとしている、あなたはここが間違っている、と思うことがあったのが、信仰を与えられてからは、自分がイエス様からゆるされ、愛されたことが分かって、人を愛し、ゆるすことができるように変えられました。そのことが喜びです』と、あかしされていました。

牧師メッセージにつながるあかしでした。



聖書の箇所はヨハネによる福音書第6章22~40節



ヨハネによる福音書第6章39,40節
『わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えてくださった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう』


崔牧師メッセージ


「ここの箇所は、イエス様がパン5つと魚2匹で、何千人もの人々を食べさせるという、みわざをなされたあとの場面です。


たくさん食べて満腹になった群衆は、イエス様をたずねました。


そして、群衆はイエス様に出会うのですが、イエス様から、『あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである』と、言われました。


それからまた、『朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい』と、言われました。


これは、群衆がイエス様がどういう方なのかを、分かっていなかったからです。


群衆はただただ、肉の体が満腹になるための、朽ちる食物しか思いませんでした。


イエス様はすべてご存知ですから、このように言われました。


イエス様が弟子たちに言われることとは、はっきりと区別されます。


私たちは聖霊によって、弟子たちよりも、もっとイエス様のことが分かります。


ですから、私たちは永遠の命に至る朽ちない食物のために働くべきです。


朽ちない食物とは、イエス様を信じることです。


イエス様は私たちを、十字架の血によってあがなってくださり、罪をゆるしてくださいました。


父なる神が御子を世につかわしてくださり、御子はご自分のみこころのままではなく、父のみこころを行われるためにつかわされました。


父なる神のみこころとは、イエス様を信じて、イエス様のみもとにいる人々が、イエス様から離れることなく、終わりの日によみがえらされて、永遠の命を得ることです。


父なる神は、御子を信じる者がひとりも滅びることなく、どんなことがあってもイエス様としっかりとつながっていることを、願っておられます。


イエス様はぶどうの木、信じる私たちはぶどうの木の枝です。


私たちはどうでしょうか?


クリスチャンと言いながら、イエス様の愛を、ゆるしをじゅうぶんに分かっているはずなのに、自分の肉の思いがどれほど強いでしょうか?


私は昨日、近くの町を伝道してきました。


そして、喜んでイエス様に感謝しながら帰ってきたはずなのに、家に入って、家族とのやりとりのことですぐにいらだってしまい、悔い改めました。


それから、皿洗いをしました。


自分の中の汚いところを洗い流すような思いでした。


2階に上がっても、今朝も、ずっと悔い改めました。


イエス様を信じ、愛を知りながら、ゆるしを受けながら、あまりにも申し訳ない自分がいました。


信じる者にイエス様がくださったいましめは、互いに愛し合うことです。


愛し合うことはゆるし合うこと、また、ゆるし合うことは励まし合うことです。


それだのに、自分がカーッとなったら、励まし合うどこではありません。


言葉は、簡単にみんな言えるかもしれませんが、実際には、ゆるし合うことは簡単ではありません。


何かあったら、励まし合うどころか怒ってしまって、そのような態度や言葉になることもあります。


親子でも、友達でも、自分と合わなかったら離れる、縁を切る、職場だったら会社をやめたりすることも、感情的になったらあることです。


皆さん、確かにイエス様の愛によって、深く愛し合いゆるし合うことは、口で言うほど簡単ではありません。


私も本当に足りなさを痛感しました。


皆さん、食べるパンは好きですか?


パンが好きな人は手を挙げてみてください(笑)


朽ちる食物も体のためには必要ですが、朽ちない食物のために、永遠の命に至る道を歩き、われわれの教会の名前ですが、もっと力を尽くすべきです。


昨日、八幡の町を伝道した時に会った姉妹が、今日来て座っておられます。


伝道は、教会に連れてきたらそれで終わりではなく、最後までずっと丁寧に仕えて、かかわって、愛していきましょう。


隣に座って、支えましょう。


イエス様の愛が分かった者としては、相手が自分を愛してくれなくても、なかなか受け入れてくれなくても、イエス様の愛を注いでいくべきです。


できる限りやめることなく、相手が自分から逃げようと拒否しても、最後までイエス様が成してくださったように愛をもって、まわりのたましいにかかわっていけるように、お祈りいたしましょう!」


アーメン✨


メッセージ要約 Satoko.M