2016年1月8日主日礼拝「イエスの弟子」

今週は牧師メッセージの前に、 I 宣教師が司会をされました。



その中で、今まで心からご主人の霊魂を愛せなかったことの悔い改めをされて、今はイエス様から力をいただいて、心からご主人の霊魂を愛し、あわれみを持ってかかわれるようになったことを、あかしされました。



牧師先生が準備されていたメッセージの箇所と、ぴったりとつながるあかしでした。




聖書はヨハネによる福音書第1章1~51節



ヨハネによる福音書第1章1~5節
『初めに言があった。言は神と共にあった。この言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった』



17節
『律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである』




崔牧師メッセージ



「今朝礼拝がはじまる前に、まだ小さなTくんが私のところに来て、素直に自分の弱さを話してくれました。



そして、『弱い私のために祈ってください』と、言ってくれました。



聖書には、『幼な子のように低くなりなさい』と、書かれています。



Tくんの話を聞きながら、その御言が思い起こされて、私は心からTくんのために祈ってあげました。



『弱いです、強くなりたいです』と。



皆さん、信仰によっては強くなるべきです。



自分は弱いけど、信仰によっては強いです。



『わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる』という御言が、ピリピ人への手紙第4章13節にあります。



このメッセージの前に I 宣教師が司会をされた話ですが、以前はできなかったけれど、今は信仰によって強くされています。



皆さん、低くなりましょう。



低くなり、へりくだる者には、イエス様が恵みをくださいます。



今は、人間的には辛いことや苦しいことがあっても、へりくだる者には必ず、時がくれば、イエス様が高くしてくださいます。



『自分を捨てる』というメッセージを昨年末に語りましたが、自分を捨てることによってイエス様が働かれます。



自分を捨てると人に腹が立つこともないし、逆にかわいそうに見えて、早くこの人が救われないといけないという思いが働いて、心から愛せるようになります。



自分が高ぶったら、人を判断して、さばくことしかありません。



そうなったら、隣り人と心からかかわることなんてできません。



自分を捨てることは、そんなに難しくはありません。



自分自身がイエス様から救われたことが本当に分かる人は、『この人が救われるためならば、私のこの命は惜しくはありません』というくらいその人の霊魂を愛し、かかわることができるようになります。


まことの愛には、恐れがありません。



先のことを考えて心配したり、恐れる思いは悪魔が持ってきますが、イエス様がくださる思いじゃなければ、戦わないといけません。



メッセージの前に、『この教会、私たちを妨害するけがれた霊を、一匹残らず追い出してくださいますように』と、イエス様に祈りました。



『肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安とである』という御言があります。



17節を見てください。



皆さんの中に、『モーセの弟子になりたい』という方がおられましたら、手を上げてみてください。



『‥‥‥‥‥‥』



おられませんね(笑)



そうですよ。



私たちはみんな、イエス様の弟子です。




そうでありながら、時には悪魔の惑わしを受けてしまって、『モーセの弟子』になってしまうことがあります。



律法者のようになって人を見たら、悪いところばかり見えて、判断して、さばいてしまいます。



たとえ99悪いところがあったとしても、1つでも良いところを見つけましょう。



私たちは、弱くてもイエス様の弟子であり、また神の子です。



われわれは何か、えらいから救われたのではありません。



ただただ恵みによって救われた者です。



ただで受けたのだから、ただで与えるべきです。



だから、相手に何か期待したり、求めるべきではありません。



相手は、神様が分からないからです。



分かっているわれわれが、とにかく愛して、かかわっていくべきです。



Tくんのことをたとえましたが、幼な子のように自分を低くして、あれこれ頭で考えることなく、恵みを受けた者として、恵みを分け与える者になるべきです。



イエス様が世の光です。



バプテスマのヨハネは、世の光であるイエス様についてあかしをするためにつかわされた者ではありましたが、聖霊によらなかったので、はっきりとは分かりませんでした。



バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレは、イエス様がメシヤだと分かってから、兄弟ぺテロをつれてきて、それから二人はイエス様の弟子になります。



先ほどは、われわれは『モーセの弟子』ではないと話しましたが、『バプテスマのヨハネの弟子』でもありません。



ぺテロとアンデレは、イエス様に出会ってからは、バプテスマのヨハネから離れて、イエス様に従って行きました。



われわれは聖霊によって、その時のぺテロとアンデレよりももっとはっきりと、イエス様からの恵みが分かっています。



そうであれば、イエス様のことをまだ知らない人々に宣べ伝えることが、われわれの使命です。



心からたましいを愛し、主のみ前に低くなって、人の前にも低くなってかかわっていく時に、すぐにではなくても、私たちについてくる人があらわれてきます。



私自身も、いろんな人に声をかけています。



今年は更に足を運んで、47都道府県に地境を広げていくために、努めていきたいと願っています。



外国には行きません。



以前、中国の宣教に誘われたことがありましたが、断りました。



日本47都道府県に福音を伝えて、霊的に生まれ変わるのを見届けるまでは。



まずはこの地域からです。



昨年、ある青年と約束をして、正月に来ると言っていたけど、その青年は来ませんでした。



あとから電話があって、『どうしても忙しくて来られませんでした』と謝ってくれました。



このように今はまだ信仰はなくても、ノンクリスチャンが電話をくれたり、謝ってくれるのは、われわれに対して思いがあるからです。



イエス様は、『反対しない者はわれわれの側である』とおっしゃられました。



『アーメン』、『信じます』と言ってくれなくても、黙って聞いてくれる人がいれば、われわれは語っていくべきです。



われわれがやめたら、何も起こりません。



イエス様が働かれるところがありません。



皆さん、両手を胸に当ててください。



一緒に告白しましょう。



『私たちは、モーセの弟子ではありません』



『バプテスマのヨハネの弟子でもありません』



『イエス様の弟子です!!』



どうですか?



今年の信仰の目標を語ったのですから、ひさしぶりに熱く、強く、大きな声で語りすぎたかもしれませんが(笑)、私たちは弱くても、信仰によってはイエス様が強くしてくださって、今は眠っている者のようでも、時がくればパッと起き上がって、今まで受けた恵みを、豊かに水があふれ出すごとくに注ぎ出せる、力強い働き人に変わらせてくださる、ということを語りたかったのです。



私自身を奮い立たせることにもなったので、良かったです。



皆さん、今年の目標を立ててイエス様に祈りながら、希望をもって、力強く求めていく1年にいたしましょう!!✨」



アーメン


要約   Satoko.M