2016年12月11日主日礼拝「模範と謙遜」
2016年12月11日の主日礼拝は牧師メッセージの前に、I執事が司会をされたのですが、信仰の姿勢について語られました。
牧師先生がメッセージを準備されていた箇所とたまたま重なり、『聖霊様がくださる霊感はひとつですね』という話から、牧師メッセージがはじまりました。
聖書は、ぺテロの第一の手紙第5章1~14節の箇所
ぺテロの第一の手紙第5章3節
『また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである』
5節
『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである』
牧師メッセージ
「私は先週、自分自身がイエス様のみまえでどのような者なのか、信仰の姿勢はどうなのか、考えさせられることがありました。
兄弟姉妹たちには、『こうしましょう』『こうしてはいけませんよ』と語りながら、自分はどうなのかと。
イエス様が、『あなたはどうなのか』という思いをくださる時もあります。
韓国語の聖書は、『権力』の箇所が『強く言う』という言葉で書かれています。
日本語の聖書が、もっと言葉が強いです。
また『長老』は、今で言うと牧師のようなものです。
信仰の経歴が長くて、たくさん経験もあって、知識も十分にある、そのような信仰者が、『長老』として立てられていました。
世の中では、そのような者は人の上に立って指図しますが、教会の『長老』は、むしろみずから兄弟姉妹たちの模範になりなさい、と言っています。
このことについて私は、
『私は果たして群れの模範になっているかな?』『兄弟姉妹たちには教えながら、自分はどうかな?』と、考えさせられることがありました。
また家庭でも、お父さんとして子供たちの前で、また夫婦なら、夫として妻の前で、模範になれているのか?
自分はしないで相手にだけ、『こうしなさい』と言っていないのか?
先週の木曜日、私はソウルの母に会いに行ってきました。
母が手をケガされて不自由だと言うので、会いに行ってきました。
母が買い物をされていた後ろから手を握って、あいさつしました。
それから私が母の荷物を持って、母がクジで当てたマンションの自宅に一緒に行って、母が作ってくださった食事をいただきました。
また義理の母にも会いに行ったら、喜んで迎え入れてくださいました。
実は韓国に行く空港に着くまでの高速道路を走っていた時に、ある兄弟に電話したことを話したくて、わざわざこの話をしました。
母の話は少しだけするつもりで、こんなに長く話すつもりはなかったのですが(笑)
その兄弟との電話のやりとりの中で、私は正直、
『〇〇〇兄弟、またなのか』という判断するような思いが働いたのですが、次の瞬間、『これじゃいけない、私自身が謙遜な者にならないと』と悔い改めて、あとからは穏やかに話すことができました。
良くない思いがあると、どうしても声も大きくなるし、『なぜなのか』と責めたくなって、結局自分が暗くなって、きちんと模範となって教えることができなくなります。
私が謙遜になって、柔和に語りかけていったら、だんだんその兄弟も穏やかになって、最後は『すみません』と謝っていました。
このように、姿勢はとても大切です。
昨日もある信仰者の集いに行ったのですが、そこで私が食事をする時に音を立てて食べていたら、5回くらいまわりから指摘されました(笑)
その集いの中に、私から見て気をつかう人がいなかったので、まあ楽にしていたというか、要するにあまり気をつかっていませんでした。
そうしたら5回も言われたので、『やめた方がいいかな』と思って、それからは静かに食べました。
食べ方については、この教会の中に見習うべき人がいます。
まだ幼いTくんですが、この子からも学ぶことはあります。
今日の司会者の語られることがぴったりと私のメッセージとあって、やはりここを語るべきだと確信しました。
皆さん、教会の中に『いらない人』はいません。
みんな意味があって、イエス様が群れの中に集めてくださっています。
だから、『わたしはいらない者だ』という思いは、絶対にイエス様がくださる思いではありません。
その思いは、百パーセント悪魔から来ます。
悪魔は、何とかして私たちを群れから離間させようとします。
悪魔はすでに地獄に行くことが決まっているから、一人のクリスチャンでも、自分と一緒に地獄に連れていこうと、ほえたけるししのように私たちのまわりを歩き回っています。
ノンクリスチャンはすでに悪魔の中にいるから、わざわざ妨害する必要がありません。
悪魔が狙うのは、クリスチャンです。
だからこそ、高ぶってはいけません。
高ぶったら、悪魔の罠にはまります。
へりくだって、恵みを賜う者になるべきです。
5節を読むと、牧師だけではなく兄弟姉妹ひとりびとりが、互いに謙遜を身につけるべきと書いています。
3節を読んで、『崔先生は牧師だから御言に従うのは当然』だけで終わるのではなく、皆さんひとりびとりが模範となり、謙遜な者にならないといけません。
必死に求める姿勢というのは、今の時代あまりないかもしれません。
私が幼かった頃、田舎で食べ物があまりなく、毎週母が市場に行った時に買ってくださるあめ玉だけが、唯一の甘い物でした。
母が帰ってきたら、真っ先にあめ玉を求めて母に尋ねたのですが、『忘れた』と言われた時は涙が落ちてきました。
農家だったのですが、食事の時は白米が食べられず、いつも麦ご飯でした。
何もなくて、いつも私はお腹がすいていたから、食べる時はとにかく早く食べたくて、音を立てて食べました。
そうしたら父から『ブタなのか』と叱られましたが、幼い私にはそんなことは分かりませんでした。
ご飯粒一粒も無駄にしたら、父からほっぺをたたかれました。
80、90くらいの戦争を体験した世代くらいしか、なかなか分からないかもしれません。
物ひとつでも大事にすることや、姿勢について、なかなか今の時代あまり学ぶことがないかもしれません。
語る言葉も大事です。
九州弁は親しみはありますが、これから47都道府県に福音伝道していく時のために、できる限り私は標準語を使おうと思います。
私たちは神の子ですから、世の光、地の塩となって働くためには、人々の模範になるべきです。
自分はしないで、人に
『こうしなさい』と言うのも良くありません。
私たちが神の子として、世を照らす光となって、模範を示していく時に、一人二人と私たちについてくる人があらわれてきます。
今年はあと2回の主日礼拝がありますが、先月から何週間か、『自分を捨てること』、『十字架を負うこと』、『恵みが十分に分かった上で自分の弱さを知ること』についてのメッセージでした。
残りも、そのようにしめくくっていこうと思います。
今週1週間、この牧師だけではなく皆さんひとりびとりが、どこに行っても神の子として模範となるように、また謙遜に求めて歩む1週間となりますように」
アーメン
要約まとめ Satoko.M


