2016年10月30日主日礼拝

「人の子は栄光を受けた」

10月30日の主日礼拝は、ヨハネによる福音書第13章12~38節の箇所のメッセージを聞きました。


ヨハネによる福音書第14章13節、14節
『わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。』


ヨハネによる福音書第13章31節
『イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。」』

牧師メッセージ

「ここの箇所は、12弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、イエス様を裏切る場面です。ユダが出て行ったあとに、イエス様が言われた御言です。



私たちは果たして、裏切られた時、どのような思いになるでしょうか?

悔しい、悲しい、怒り、やり返したい、さまざまなマイナスの感情にとらわれるに違いありませんが、イエス様はそうではありませんでした。

まったく、私たちとは正反対でした。

『今や人の子は栄光を受けた』と、ただただ父の御心が成就することだけを思われて、イエス様はこのように語られました。

私自身、今まで正直に、裏切られたことも、裏切ったこともたくさんありました。裏切られた時は、やはり人間的な思いにとらわれて、ずいぶんと葛藤したこともありました。裏切ってしまった時は、申し訳なさのあまり、ずいぶんイエス様に悔い改めました。

弟子だった者が、自分から学んでついてきていた人が、自分を裏切ったならば、人間的にはだれだってやりきれない思いになります。

ですが、これでは全然霊的じゃないし、まだまだ私は人間的だなあと思い知らされました。イエス様のように言える人になりたいと強く思いました。
良くないことが目に入れば、だれだって人としては暗くなりがちですが、そうしたら、霊的に自分自身が損します。

イエス様がイスカリオテのユダに言われたように、
自分のまわりのだれが何をしたとしても、自分を裏切ったとしても、
「しようとしていることを、今すぐするがよい」
と思って、とらわれないようにすることが、霊的にとても大事です。

だからといって、イエス様がイスカリオテのユダを愛していなかったのではなく、ユダのことを考えたら心は痛かったでしょう。

今まで、イエス様を主と呼び、教師と呼んでいたユダでも、悪魔が入ったらイエス様を裏切る者に変わったのですから。

つかわされた者がつかわした者を裏切ったら、結局、つかわされた者が損します。

ほかの弟子たちは、つかわした者と、つかわされた者との関係を分かっていたから、さいわいでした。

ヨハネによる福音書には書かれていませんが、イエス様はユダに、
「生まれなかった方が
、あなた自身のために良かった」と、おっしゃられました。

だれかはイエス様を裏切らないと、父の御心が成就されないから、ユダはそのために用いられてしまいますが、あとから後悔して自殺してしまいます。

霊的に見たら、ユダが裏切ったことによって、イエス様が引き渡され、父の御心が成就される時が近付いたから、
『今や人の子は栄光を受けた』
ことです。

人間的には喜べないことも、イエス様が栄光を受けられることであれば、
『イエス様が栄光を受けられた』
と霊的に見て、人の良くない姿を見ても、
『しようとしていることを、今すぐするがよい』
と心を騒がせずに、いつもイエス様の平安がある1週間となるように、お祈りいたします。」


アーメン



まとめ  Satoko.M